中浦ジュリアン
結城了 悟sj (イエズス会日本管区のパンフレット、2002年より)

l.故郷に根を下ろして
 長崎県西海町の運動公園には中浦ジュリアンの記念像がある。18 歳くらいに見えるブロンズ製の青年像は着物袴と陣羽織を身に着けているが、そのあどけない顔に自分の歩むべき道を知っている大人の決意を窺い知ることがで きる。記念像全体には躍進する力が溢れていて、東西に開いた腕は使命と呼びかけである十字架を表している。西海の子、中浦ジュリアンは自分の理想を全うし た人であり、人々を招き入れる指導者である。16世紀半ば頃、日本に着いた最初の西洋人たちは、平戸から天草までの西海岸を西海と呼んでいた。小島群に守 られた深い入江にひっそりとたたずむ港は、昔から諸文化が大陸から日本に流れ込む門のようであった。陶器、鉄、米、仏教、漢字などがそこから日本に入り、 日本の文化を育んだ。西海の人々は、そのような出会いによって外に向かって思想も精神も開かれていた。16世紀の後半にポルトガルの巨船ナウ船も西海の港 を訪れ、平戸、横瀬、福田、口之津、富岡の浜で商品を降ろし、新しい文化の花粉を撒いていた。
 その国際的な出会いは時機が熟していた。足利幕府末期にあって、 日本の社会は新しい希望に沸き、人々が戦国時代の悪夢から立ち上がろうとして道を探していた。他方、南ヨーロッパ諸国では教会はルネッサンスの倫理的な危 機を脱し、新しい力をみなぎらせて自らの根本的な使命すなわち福音を宣べ伝えるために歩み始めた。その内的な力の一つの実りが、イエズス会であった。その 会の創立者が自分たちの理想を次の言葉で表していた。 
「イエスの名の刻印を帯びることを望むこの会において、十字架の旗 のもとで神のために戦い、地上におけるキリストの代理者であるローマ教皇のもとで、主とその花嫁である教会だけに仕えようと望むものは・・・」
 燃え立つ心でその理想を自分の使命とした最初の一人が、聖ランシ スコ・ザビエルであった。ザビエルは他の二人のイエラス会員コスメ・デ・トーレス神父、イルマン・ジョアン・フェルナンデスと共に1549年8月15日鹿 児島に入港し、1年後の1550年の夏には3回にわたり西海の島々をぬって平戸まで行き、そこにも教会の種を蒔いた。1562年、ザビエルの二人の友トー レスとフェルナンデスは、日本でイエズス会に入会したイルマン・ルイス・デ・アルメイダと一緒に横瀬浦に入港し、そこが大村の大名純忠民部の賢慮によって ポルトガル貿易に開かれた。
この地から発展した歴史に皆の期待に勝る二つの実りがあっと。 1563年に大村純忠が受流してバルトロメウと呼ばれ、1570年に長崎に新しい港が開かれて新しい町が誕生した。キリストの教えが西海の良質の土に根を 下ろし、そこの住民は現在まで信仰を守り続けてきたのである。
 現在、西海という名前は長崎県の一つの町区画だけを示している。 西彼杵半島の北西に位置し、歴史の証し人として横瀬浦と七つ釜の美しい入江がある。七つ釜の入り口の東海岸には滑らかな丘の間に中浦という集落がある。七 つ釜はその地方の領主小佐々弾正純俊の水軍の基地であった。小佐々家は大村純忠の家臣で、本城は飯盛山にあり、それを守る出城が松島と中浦にあった。中浦 の城主小佐々純吉は城からその名をとって中浦純吉と呼ばれ、わがジュリアンの父であった。

2.海との出会い
 現在、中浦には城主たちの昔日と密接に関わる二つの場所、城山 (ジョウヤマ)と館(タチ)がある。城山には見張り櫓があって戦の時に避難所となったが、館は城主の住居があった所である。中浦ジュリアンの生地には彼を 使節として記念する碑が建っている。台座の上の黒御影石の大きな地球儀の表面には長崎からローマまでの道が彫られ、その上には同じ石材でポルトガル船の帆 とマストが立っている。
 1563年、西彼杵半島の数人の領主が横瀬浦で洗礼を受け、その 中に小佐々家り人物がいた。ジュリアン誕生の1568年に家族はすでにキリシタンであったが、間もなく大きな悲劇がその家族の幸せを打ち砕いた。1569 年、小佐々弾正と弟中浦純音が大村純忠を守るために宮村合戦で討ち死にしたのである。飯盛城のふもとの小さな墓地には今も小佐々一族の英雄たちの眠る苔む した墓石が残っていて、その中にはキリシタン墓碑もある。
 ジュリアンはおそらく父親の悲劇によって少年時代を大村で過ご し、彼の年齢と家族の関係を考えれば、大村喜前の遊び仲間であったと思われる。1580年にはジュリアンの生涯に新しい方向を決めた出来事があった。1年 前に日本に着いたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が有馬の日野江城の城下町にキリシタン武士の子息たちのためにささやかな学校を設立したのである。セ ミナリヨと呼ばれたその学校の最初の生徒の中に、中浦ジュリアンと大村のもう一人の家臣の子、原マルティノがいた。ここで中浦ジュリアンの信仰は深まり、 イエズス会の教師たちが教示するキリスト教的ヒューマニズムに心開かれた。
 1581年12月の終わり頃、大村から届いた便りがセミナリヨを 静かな興奮で包んだ。九州の3人のキリシタン大名がヴァリニャーノ神父の計画したローマへの使節団派遣を承諾し、その使節は全員がセミナリヨの生徒だった のである。有馬の屋形ドン・プロタシオと大村のドン・バルトロメウの名代として有馬晴純仙厳の孫、千々石ミゲルが選ばれ、豊後のドン・フランシスコ大友の 名代としては日向の大名の孫、伊東マンショが選ばれた。副使節として原マルティノと中浦ジュリアンが任命された。ジュリアンは未亡人の母の反対を克服しな ければならなかった。許可を得た後にも、母はひとり息子を引き留めようと懇顕したので、長崎で出航を待つ間ジュリアンは家を出てイエズス会の修道院に移ら ねばならなかった。
 使節団は1582年2月20日出航し、1590年7月21日同じ 長崎港に戻った。8年にも及ぶその旅でジュリアンは660日以上も波間に揺れる船のデッキで過ごした。あの時代には大海原を渡って旅するのは命がけの闘い であった。敗者は故郷の海岸を二度と見ることはない。勝者には、栄冠として太陽と夙によって強靭となった身体と厳しい闘いで鍛え上げられた精神が与えられ るのである。
 ジュリアンにとって西洋に向かって船出する主な目的は教皇に謁見 することであった。そして体験したことを日本人に知らせ、ローマで発見した崇高な理想のために命を捧げることが彼の使命であった。

3.教皇との出会い
 使節たちの旋は予想以上の成功を収めた。彼らはポルトガルではエ ボラの大司教の賓客であり、また若いブラガンサ公爵の友人となった。スペインではフィリッポ2世に温かい歓迎を受け、皇太子フィリッポの宣誓式に参列する こともできた。アルカラ大学とイエズス会が経営していた学校では、日本では見られない学生の生活に触れることができた。イタリアではフィレンツェとピサで メディチ大公の栄華を目、の当たりにした。使節たちは喜びに溢れてトスカーナの平野の春の優しい陽光を浴びた。
 そこで、神の手がジュリアンを試す時が到来した。神の手が丸ノミ のように、ジュリアンの心を刻む。ジュリアンはその地方の風土病である三日熱にかかっていた。ローマの門に入る時、ジュリアンは高熱で苦しんでいた。ジェ ズ教会で行われた歓迎の祈りの間、満身の力を振りしばって立つことができたが、翌日のグレゴリオ13世の謁見日にも熱が下からず、医者も神父たちもジュリ アンを家から出すべきでほないと判断した。しかし、ジュリアンはその命令を拒み、そのために日本から来たのだからと教皇様と謁見すると言い張った。長い議 論の末、ジュリアンはラテン語で「もし教皇様の前に案内されその祝福を賜ればきっと回復するでしょう」と刀をこめて言った。医者は仕方なくジュリアンを先 にひとり馬車に乗せて、教皇の下に連れていった。
 謁見は深い感動のうちに行われた。すでに84歳であったグレゴリ オ13世は高熱で震えるジュリアンを抱いた。老人の目にも少年の目にも涙が光った。そしてグレゴリオ13世は、家に戻ってベッドで休むようにジュリアンに 優しく言い聞かせると、ジュリアンは素直にそれに従った。数日後、グレゴリオ13世は天に召された。死の数時間前までジュリアンの健康を気遣っていた。
 ジュリアンと仲間はローマにある多数の教会を訪れある日、キリナ レの丘の聖アンドレアというイエズス会の修練院に案内された。修練院の墓地には17年前に亡くなったスタニスラオ・コストカの墓があった。このポーランド 出身の青年は自分の召し出しに応えるため留学中のウイーソから徒歩でアルプス山脈を越えてローマまで行き、そこで総長であった聖フランシスコ・ボルジアに よってイエズス会に受け入れられた。19年後の1568年8月14日、スタニスラオは18歳で昇天した。その墓前でメスキータ神父から開いたスタニスラオ の話が4人の使節に深い印象を与えた。その日の夕方に4人はイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィヴァに面会を求め、ローマに留まって修練院に入りたい 旨を打ち明けた。
 アクアヴィヴァは彼らの決心をほめたが、賢明にも、まだ4人が務 め半ばであったので、先ずそれを終え、日本に帰ってからもその決意が同じであれば、ヴァリニヤーノ神父と相談して決めるようにと言った。ジュリアンはアク アヴィヴァの忠告を受け入れたがこの時から心を温かく照らす光を特別に感じるようになった。自分を招く声が聞こえるからである。ジュリアンはどのような困 難な状況にあっても、その声に従いたいと思った。
 「ローマ教皇の下で主とその花嫁である教会だけに仕えることを望 む。」

4.使節たちが帰る
 再び海と空だけを眺める長い船旋が続く。モザンビークの重苦しい 雰囲気、ゴアでのヴァリニヤーノ神父との喜ばしい再会、マカオでは関白秀吉の禁教令の知らせを受け船便が途絶えたので、2年間空しく待たねばならなかっ た。ジュリアンは静かに祈り、勉強し、将来の仕事のために準備する。ついに1590年7月21日、再び長崎に入港した。晴れやかな歓迎を受けたが、ジュリ アンの母の姿がそこにはなかった。留守中、ただ一人の息子を待ちわびながら他界していた。ジュリアンはこの時「ローマへ行った人」として注目を集めた。数 週間の間4人の使節は禁教令のため八良尾(有馬)の山中にひっそりと移されたセミナリヨで休息し、そこで音楽を教え、生徒たちに旅の経験を話して聞かせ た。
 ついにヴァリニャーノに、インド総督の使節として秀吉が謁見する という知らせが届いた。ヴァリニヤーノはジュリアンたちを連れて京都に上り、1591年3月1日、衆楽第の荘厳な雰囲気の中で謁見は実現した。ジュリアン たちは秀吉の前で西洋の楽器を奏でながらポルトガルの歌を歌った。秀吉は何度も所望したそうである。 九州に戻ったジュリアンたちは教皇からの手紙や献上 品を有馬晴信と大村喜前に渡して使節としての任務を完了した。今や自由の身となり、自分たちの将来を選ぶことができる。秀吉からも有馬晴信からも仕官の話 があったし、家族が様々な要求を出したが、ローマのキリナレで見たスタニスラオの質素な墓の思い出がまだ彼らの脳裏に焼きついていた。神のみ旨を伺うため 彼らは数日間黙想した。ジュリアンの心にもスタニスラオが聞いた声がささやいたのかもしれない。
 「私と共に来たい人は、私と同じ食事、そして同じ飲み物、衣服な どで満足しなければならない。また、昼間は私と共に働き、夜は共に寝ずの番をし、他の仕事もそうしなければならない。このようにして、私の苦労に与かった ように、後に私の勝利にも与るであろう。」 
 すべての絆を断ち切って、ジュリアンたちは天草の河内浦にあった イエズス会の修練院に入った。聖ヤコブの祝日の7月25日であった。ちょうど4年前、秀吉が宣教師追放令を発布した同じ日であった。この日から中浦ジュリ アンは、九州の大名の使節ではなく無法者となったが、生涯の一番豊かな日々が始まることとなった。ジュリアンは今度、祖国のためのキリストの使節となり、 日本の教会とローマを結ぶシンボルになったのである。

5.「私は神の祭壇に、私の命のよろ こびとなる神のもとに行く」
 イエズス会員になった中浦ジュリアンは、まず天草の修練院に2 年、コレジヨに4年、合計6年間を過ごした。修練院では祈りと労働とラテン語の勉強に数時間を費やしながら、聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊操とイエズス会 会意が教示する霊性を身につけようと努めた。
「この会の目的は神の恵みによって、ただ自己の霊魂の救いと完成に 意を注ぐだけではなく、同じく神の恵みにより、熱意をもって隣人の救いと完成のために図ることである。」
 修練期の2年間が終了すると1593年の同じ聖ヤコブの日、ジュ リアンたちは神に生涯の清貧、貞潔、従順を守ることを誓い、聖なる奉仕のために持てるものすべてを捧げた。その日からイエズス会のイルマン(修道士)と なって隣家のコレジヨに移った。ここではラテン語の勉強を続けながら哲学、日本文学、弁論学を学んだ。しかし秀吉配下の役人が朝鮮出兵の基地として肥前名 護屋城と屋敷を築造するために、材木を求めて天草まで渡ってくるようになった。そのためコレジヨは閉鎖され、イルマンたちは村々に分散して信者の農家に住 むことになった。当時、ジュリアンは気づかなかったであろうが、そのことで自分の将来の使徒職の現場を知ることができた。
 ジュリアンの最初の任地は小西行長の領地南肥後の第二の町八代 で、ジョアソ・バブテスタ・デ・バエサ神父の指導の下で働くことになった。約2年間で数千人が教会に関わるようになった。精力的に活動するジュリアンは、 同級生イルマン伊予シクストと共に収穫の喜びを味わった。しかし関が原での豊臣側の敗北がすべての夢を打ち砕いた。小西は処刑され敵方加藤清正がその地を 領有したので、ジュリアンたちは八代城主菜作ディエゴ及びその家臣と共に薩摩に逃れた後、長崎に戻った。1601年の秋にはジュリアンは日本の最初の司祭 木村セバスティアンとルイス・ニアバラの叙階式に与かった後、再びマカオに向けて船出した。ジュリアンは、ヴァリニヤーノが日本のイエズス会の神学生のた めに設立した聖パウロ学院で3年間神学を学んだ。彼に同行したのは伊東マンショ、結城ディエゴと他の数人の日本人で、ヨーロッパから来た若いイエズス会貞 たちと一緒に生活した。この時マカオで勉強した人々が、後日もっとも厳しい迫害下にあって日本の教会を支え、教会のために命を捧げたイエズス会員になるの であった。
 ジュリアンが長崎に戻ったのは1605年頃であった。勉強を終 え、憧れの司祭叙階が許されるだろうと期待していたが、はっきりした理由も分からず、叙階されることもないまま有馬のセミナリヨ、京都、博多の教会で働い た。ジュリアンは希望を失わずに従った。使節の時に指導者であり霊父であったメスキータ神父は彼を励ました。ついに1608年9月、ジュリアンはマイショ とマルティノと共に長崎の教会でセルケイラ司教によって司祭として叙階された。彼らのそばにはメスキータ神父もいて、彼らの頭上に按手した。「あなたは永 遠に司祭である。」
 ジュリアンは助任司祭として博多の教会に戻った。主任はペドロ・ ラモソ神父で、イルマン伊予シクストとニコラオ・ケイアンもいた。二人ともジュリアンと同じ年、同じ穴吊りの責めで殉教者となる。博多での活動については 一つの話しか残っていない。ジュリアンは生月の篭手田の家来の子供シメオン・スエタケに洗礼を授けた。1629年、19才になったシメオンは雲仙の責め苦 を受けることとなる。拷問の時に示した勇気と忍耐を見て驚いた刑執行人が「これほどの苦しみに耐えるお前はどのような学問を身につけたのか」と尋ねると、 シメオンは「私が知っている学問は死ぬことだけです」と穏やかに答えた。ジュリアンは良い種を蒔いていた。
6.慶長19年の暮れ
 1614年は日本の教会にとって危機の年であった。1月に徳川家 康はすべての宣教師の追放と教会の破壊を命じた。2月には、その便りが長崎に届く前にセルケイラ司教が死亡し、11月には追放された宣教師の船がマニラ、 マカオに向けて出港した。マカオ行きの船には使節の時からの2人の家、原マルティノとコソスタソティノ・ドゥラドが乗っていた。11月6日、出港の二日前 に長崎の漁村の浜辺にあった小屋で、メスキータ神父が息を引き取った。ジュリアンは、日本にただ一人留まった。彼は徳川の禁教令の中で、潜伏宣教師となっ た。ジュリアンは口之津の教会に任命されていた。当時のジュリアンの孤独と無力感を想像するのは簡単であるか、ジュリアンはこの時のために神の導きと試練 によってすでに準備されていた。彼についての報告書がローマに残されている。報告書を作成したのは、日本に対してそれほど尊敬の念を抱いていなかったと思 われる管区長バレソティソ・カルヴァリオであった。
「年は47歳、健康、イエズス会貞として23年、学識、分別能力、 あるいは身分の上下にかかわらず対人関係はすべて普通である。性格は胆汁質より粘液質に近い。」
 奉行の長谷川左兵衛は口之津で信者たちを厳しく弾圧し、多くの殉 教者の血が流さゎた。長谷川はこれ以上信者たちを改宗させることを諦めて口之津から撤退した。そこでジュリアンは口之津に赴き、信者を激励し、信仰を棄て た人々を再び立ち返らせた。その時から10年の間、口之津の信者がジュリアンの家族となり、彼と信者の心は一致していた。1621年に口之津からローマに いる古い知人マスカレニヤス神父宛に書いた手紙には、次のような言葉が書かれている。
 「さて、神父様、ここで心からのキリスト信者であり、信仰のため に起こりえるすべての迫害に一身を投げ出している人々と共に…」
 また同じ頃、ジュリアンの指導によって信者たちが教皇パウロ5世 に送った手紙には、次のように書かれている。
 「ガラサ(恩恵)を以て、キリストとローマのサンタ・エケレジア (教会)の御証拠に、身命を捧げ奉らむと、燃え立つばかり存じ奉り侯。」
 その手紙に署名した12人の信者のうち少なくとも6人が、7年 後、雲仙の熱湯責めで約束通り命を捧げた。1621年12月21日、加津佐にあったイエズス会の秘密の小聖堂で最終誓願を立てた時、中浦ジュリアン神父は すべてをキリネトに捧げる覚悟を固めて日付の脇に次の言葉を加えた。
 「迫害時(tempore persecutionis)に」
 潜伏宣教師としてのジュリアンの19年間は長い十字架の道であっ た。彼のそばで宣教師も信者も死んでいく。ジュリアンは口之津地区以外に、毎年、広範囲に宣教の旋に出かけ、天草の村々、八代、柳川を通って久留米、小倉 の信者を訪れていた。時には信者たちが、年老いて脚が弱ったジュリアンを穀類を入れて運ぶ篭にのせて背負って行ったこともあったという。1625年管区長 フランシスコ・パチェコ神父が口之津に本部を置いたのでジュリアンは小倉に移り、描まるまでこの地で活動した。その晩年の活動についての報告はないが、 1632年の暮れキリシタンに対して理解があった細川忠利が小倉から熊本に移されるとジュリアンは最後の拠り所を失い、新しい大名の配下の役人の手に落ち た0彼と共に忠実な同宿トーマス・リョウカンも括らえられた。

7.クルス町の牢から西坂の殉教地ま で
 中浦ジュリアンは長崎の有名な「クルス町(現桜町)牢屋」に送ら れた。そこで殉教を待っていた他の数人のイエズス会の宣教師と一緒になった。1633年、長崎で二奉行制が始まり、将軍家光の指示で徹底した弾圧を加えら れ、特に宣教師たちを棄教させるために新しい拷問である穴吊り責めが始めらゎた。その恐ろしい責め苦を最初に受けた宣教師はイルマン・ニコラオ・ケイアン で、7月28日から31日まで英雄的にそれに耐えた。その日から毎日のように殉教者が出たが、奉行は信者の信望も厚く有名であったジュリアンを特別に棄教 させようとした。ジュリアンは10カ月の間、しばしば奉行所に呼ばれて厳しい取り調べを受けた。菱・る時には棄教と引き換えに領地を供与する条件が出さ れ、また拷問にかけるという脅しを受けてもジュリアンは微動にもしなかった。ジュリアンは牢屋の中で仲間と共に祈り、殉教のための準備をした。彼らはしば しば聖イグナチオの言葉を黙想したのかも知れない。
「イエズス会の一人ひとりの会員は、全生涯にもさらに死に際しても 自らにおいて我が神と主であるイエスヰリストが栄光を受け給うように努めなければならないのである。」
 とうとう奉行の堪忍袋の緒は切れ1633年10月18日、ジュリ アンは他の7人の宣教師と共に牢屋を出て西坂に向かうこととなったその8人はドミニコ会員のルカス・アロソノ神父とイルマン・マテオ、イエズス会貞のアタ ミ、ソウサ、フェレイラと中浦神父、イルマンのペドロとマテオであった。
 行列はクルス町から小川に下り、そこから上町を通って西坂を上っ た。ジュリアンは病気で不自由な脚の痛みに耐えて、カルワリオに登ったイエスと同じようにゆっくりと一歩一歩進んだことであろう。刑場に着くと2人の奉 行、今村と曽我が待っていた。殉教の場面を見るために多数の住民が駆けつけた。
 ジュリアンは奉行たちを見ると彼らに闘いを挑むかのように名を名 乗った。 「私はローマヘ行った中浦神父です。」
 そして穴吊りのためきつく縛り上げられる間、独り言のように最期 の言葉をつぶやいた。
 「この大きな苦しみが神の愛のため」
 穴に逆さ吊りにされる3日間の壮絶な苦痛に耐え、ついに10月 21日、神に霊を捧げた。
 「キリストとローマのサンタ・エケレジアの御証拠に」
 8人中ただ一人、フェレイラがころんだ。他の7人は殉教を遂げ た。その遺体は火葬にされ、灰は海に撒かれた。ジュリアンは65歳であった。西坂にはその殉教を記念するブロンズも石碑もない。この丘の岩全体が記念碑で あり、長崎湾がその墓である。ここでジュリアンの最期の言葉が今も聞こえる。
 「この大きな苦しみが神の愛のため」
 完全にすべてを御父の手に委ねる。自分のために十字架で亡くなら れた主に対する無条件の愛が静かに燃える。中浦ジュリアンは、神の招きに応じて少年時代に始めた歩みを全うしたのである。