Things related to the Jesuits of the "Christian Century"
ローマ、ジェス教会資料、イタリア内務省FEC所管
Unknown Painter, 17th. Century, Gesù Church, FEC, Rome

「ローマのジェス教会の応接間に日本のイエズス会員の殉教者を力強く現す三枚の古い絵図がある。
一枚目は、ザビエルの姿の下に日本で殉教したすべての会員を殉教の種類にしたがって紹介している。
二枚目は、イルマン・レオナルド木村とその仲間の一六一九年の殉教図で、西坂から銭座町辺りまでの風景を見せる。
三枚目には、元和8年(1622年)の殉教が細密に描かれている。絵図を描いたのはジョヴァンニ・コラ(ニコラオ)の弟子であった無名の南蛮絵師と思われ る。絵は恐らくマカオで制作されたものであろうが、絵師は殉教を目撃した後マカオに渡つたか、あるいは以前から場所をよく知っていてベント・フエルナンデ スの記録に基づいて絵を描いたと思われる。
 元和大殉教図を見て私は歴史の皮肉について考えることがある。徳川秀忠は京都の大殉教後、元和大殉教をそれと関連して、1622年の終わりまで九州で行 なわれた殉教によってキリシタン宗門を根絶したと思ったであろうが、元和大殉教が将軍の思惑に反して信徒の心を強固にすると同時に、その後の記録、殉教 図、そして最後に殉教者の列福によって、全世界に日本の教会の精神と殉教者の英雄的な態度と美徳を現在まで紹介してきた。 」・・・
 「二十六聖人の殉教の記録には、その場所は「麦畑であった」と書かれていて、それは段々畑であったと考えられるが、ローマに保存されている南蛮絵師が描 いた元和大殉教図とベント・フエルナンデスの記録は、同じように表現している。丘は二段に分かれていて、下段は斬首される信者、上段には火炙りにされる宣 教師の場所であった。それより小高い所には役人たちの姿も見られる。この場所の地形は色々と変化があったにもかかわらず基本的には同じである。二十六聖人 の殉教後、もっとも大きな意義をもつ元和八年の大殉教もそこで行なわれ、現在、巡礼所になった西坂公園の歴史的、宗教的意義を高めている。」
                        
結城了悟訳、『長崎の元和大殉教』、1622年、ベント・フェルナ ンデス神父による記録、日本二十六聖人記念館、2007年 6月 より