伴天連追放令、【バテレンついほうれい】キリシタン宣教師の国外追放を規定した法令のこと。
1587年(天正15)豊臣秀吉が九州平定後,筑前筥崎(はこざき)で発令した6月19日付け秀吉によるキリシタン禁制定書(バテレン追放令、1587年
7月24日) |
定 一、日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、太だ以て然るべからず候事 一、其の国郡の者を近付け門徒になし、神社仏閣を打破らせ、前代未聞に候、国郡在所知行等給人に下され候儀は当座の事に候、天下よりの御法度を相守り、諸 事その意を得べき処、下々として猥の儀は曲事の事 一、伴天連其の知恵の法を以て、心さし次第に檀那を持候と思し召され候へハ、右の如く日域の仏法を相破る事曲事に候条、伴天連儀日本の地ニハおかせられ間 敷候間、今日より廿日の間ニ用意仕り帰国すべく候、其中に下々伴天連に謂れざる族申し懸る者これあらハ曲事たるへき事 一、黒船の儀ハ商売の事に候間各別に候の条、年月を経諸事売買致すへき事 一、自今以後仏法のさまたけを成さざる輩ハ商人の儀は申すに及ばず、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、其の意成るべき事 已上 天正十五年六月一九日朱印 〔松浦家文書〕、松浦史料博物館蔵。(清水紘一、『キリシタン禁制史』66~68頁より) |
説
明、〈定〉5ヵ条。要旨は,日本は神国・仏教国であり,邪法キリスト教が説かれることは不適当であるから,宣教師は20日間以内に国外退去
せよとしている。発
令因については諸説がある。この追放令によって宣教師はいったん平戸に集結したが,再び各地に分散・潜伏したため,実際には空文化した。平戸市の松浦史料
博物館に写しが所蔵される。(2)以心崇伝が1613年(慶長18)徳川家康の命により作成した排キリシタン令。通常伴天連追放文と呼び(1)と区別す
る。将軍徳川秀忠の名で公布され,江戸時代を通じて幕府のキリシタン禁制の基本法となった。要旨は,日本が神・儒・仏三教の国であり,キリスト教が日本の
正宗を惑わし政体を改め善悪をそこなう邪教であるゆえに,同教を掃攘するとしている。同令によって翌年には高山右近を含め多数の宣教師がマカオとマニラに
追放された。《異国日記》所収。 清水 紘一 (小学館、『スーパー・ニッポニカ2001』[ライト版]よりの抜粋。) |
キリシタン禁制 【キリシタンきんせい】 江戸幕府などによるキリシタン禁止政策。1612(慶長17、内
容は下記)江戸幕府は禁教を表明し,13(慶長18).12.23付で崇伝起草の<伴天連(バテレン)追放文>を全国に布告した後も,禁教関
連法令を繰返し発令。38(寛永15)以降,禁教令と訴人への褒賞金(嘱託銀)の規定が高札として掲示された。明治政府は当初,幕府のキリシタン禁制政策
を引継いだが,諸外国の抗議により1873(明治6)高札を撤去しキリスト教を黙認するに至った。(岩波『日本史 辞典』より抜粋) |
慶長一七年八月六日 条々 一、 一季居之事、堅被停止之上は、侍之儀は勿論、中間、小者に至迄、於拘置は、速可被処罪事、 一、 伴天連門徒御制禁也、若有違背之族は、忽不可遁其科事、 一、 手負之事、不依上下疵疲付候者有之ハ、他所より手負来に付てハ、其所に則留置、注交名、急度可有主言上、若於隠置は、可被処其科事、 一、 たはこ吸事被禁断一畢、然上は売買之者迄も於見付輩は、双方之家財を可被下也、若又於路次見付に付てハ、たハこ并売主を所に押置、可言上、則付たる馬荷物 以下、改出すものに可被下事、 附、於何地もたハこ作るべからさる事、 一、 牛を殺す事御制禁也、自然殺すものにハ、一切不可売事、 右之趣、領内え急度可被相触候此旨被仰出者也、仍執達 如件、 慶長、十七年八月六日 『秀忠公御制法』(内閣文庫蔵) |