注意、こちらに
二十六聖人と関連のある、専門家による基本的な知識をおさえるための抜粋引用程度である。多くの項目は結城了悟の書物と阿部猛・西村圭子『戦国人名辞典』
新人物往来社、昭和62年より抜粋し、多少の修正を加えた。
二十六聖人 にじゅうろくせいじん
日本最初のキリスト教殉教者。1591年(天正19)豊臣秀吉のフィリピン入貢勧告をきっかけにスペインとの外交関係が開け,マニラ政庁から外交使節とし
て宣教師が派遣された。彼らは上京し,1587年の〈伴天連(ばてれん)追放令〉を無視して布教を開始した。秀吉はかねてから南蛮国の侵略的性格に危惧を
懐いていたが,96年10月(慶長1年8月)土佐に漂着したスペインのサン・フェリペ号の水先案内人の不用意な発言をきっかけに,同船の積荷を没収し(サ
ン・フェリペ号事件),京都およびその近郊にいたフランシスコ会士6名とその日本人信者15名,日本人イエズス会士3名を逮捕した。のちに信者2名も加え
られた。彼らは京都,大坂,伏見,堺で引き回され,長崎に送られ,1597年2月5日(慶長1年12月19日)西坂で処刑された。1862年6月ローマ教
皇ピウス9世によって列聖。
岸野 久
サン・フェリペ号事件サンフェリペごうじけん
メキシコ・フィリピン間航行のスペイン船サン・フェリペ号は,1596年7月マニラを出港し暴風雨のため10月19日(慶長1年8月28日)土佐浦戸に漂
着した。この報は早速領主長宗我部元親より豊臣秀吉に伝えられ,船長ランデーチョも秀吉に使者を遣わし保護を求めた。秀吉は奉行増田長盛を派遣して積荷を
没収させたが,この処置に航海長が抗議してスペインの征服事業につき大言壮語し,あるいはポルトガル人がサン・フェリペ号漂着に関しスペイン人の日本征服
とマニラからの渡航修道士との関係につき讒言(ざんげん)したため,当時畿内で公然と布教していたフランシスコ会修道士らが捕らわれ,翌年2月の二十六聖
人の殉教となったと考えられている。この事件が秀吉のキリシタン迫害を再燃させ,殉教事件を惹起する直接の契機になったことは確実である。修復を終えたサ
ン・フェリペ号は,97年4月浦戸よりマニラに出帆した。 五野井 隆史
ルイス・フロイス Luis
Frois 1532‐97
ポルトガル人のイエズス会士。リスボンに生まれ,1548年イエズス会入会。同年10月ゴアに到着し,聖パウロ学院に入学。修練期間中,来日前のザビエル
や日本人アンジローらに会った。50年末からイルマンとして,インド,マラッカで布教に従事した。61年ゴアで司祭に叙階され,63年(永禄6)7月に来
日した。12月度(たく)島(平戸市)に渡り,ザビエルの同行者であったフェルナンデスから日本語および風習,習慣などを学んだ。在日イエズス会はザビエ
ル以来日本の政治・文化の中心地として都(京都)地方を重視していたが,フロイスは64年末にここに派遣され,76年(天正4)まで12年余り滞在した。
1566年から都の地区長を務め,69年3月,前年入京した織田信長と会い,知遇を得たことはキリシタン教会発展の基となった。同年夏,岐阜に信長を訪
ね,72年には通訳として布教長カブラルに同行し信長を訪問した。76年オルガンティーノに地区長の職を譲り,77‐81年まで大友宗麟支配下の豊後地方
の地区長を務めた。1580年日本巡察使バリニャーノが来日して上京するさい通訳として同行し,信長から歓待された。バリニャーノは日本視察後年報制度
(一定の書式で定期的にする布教報告)を設けたが,フロイスは準管区長の下で《イエズス会日本年報》の執筆者になった。83年秋,長年の日本研究と文才が
評価されて《日本史》の編纂を命じられた。87年準管区長クエリョに同行し豊臣秀吉と大坂城中で会見した。同年伴天連追放令後各地を移転し,90年長崎に
居を定め,92年(文禄1)2月および7月に開催された準管区総会議では書記を務めた。同年10月バリニャーノとともにマカオへ行き,3年余り秘書を務
め,95年長崎へ戻った。97年二十六聖人の殉教を目撃して報告書を書き,同年7月長崎で没した。滞日三十数年,信長,秀吉らの激動の時代を生き,彼らと
も接触して中央政界の事情にも社会,文化にも詳しい日本通の宣教師であった。著書《日欧文化比較》(1585。《大航海時代叢書》所収),《日本二十六聖
人殉教記》(1597)のほか年報,書簡多数がある。 岸野 久
『日本史』に
ほんし Historia de
Japam
イエズス会士フロイスが記した1549年から94年までの編年体の日本布教史。自筆の原稿は発見されていないが,一部分を除き,18世紀の写本が存在す
る。全体の構成は1593年11月12日付フロイス書簡によると,第1巻〈日本総記〉(今日不明),第2巻〈1549年〜1578年〉,第3巻〈1578
年〜1589年〉となる。だが実際の記述は94年2月まである。フロイスは1583年秋に執筆を命じられると直ちに着手し,84年に第1巻,86年に第2
巻,93年には第3巻を完成し,推敲の段階にあったが,日本巡察師バリニャーノは原稿を検閲した結果,冗長にすぎるとして短縮を要望し,ヨーロッパに送付
しなかった。そのため本書は近年まで未刊のままであった。宣教師の布教活動と成果のみならず,戦国時代末期から安土桃山時代の日本社会の諸様相を今日に伝
える外国人の証言として貴重で,邦訳がある。 岸野 久
イルマン irmão[ポ ルトガル]
伊留満,入満とも書く。〈神弟〉〈兄弟〉を意味するキリシタン用語。イエズス会の修道者のうち,司祭職にある者をパードレ padre
といい,パードレを補佐する者をイルマンといった。キリシタン時代,イルマンを経てパードレに叙階されるのがふつうであった。また,信者の協働組織である
コンフラリア confraria(組,講)の構成員もイルマンといった。 岸野 久
伴天連追放令 バテ
レンついほうれい
キリシタン宣教師の国外追放を規定した法令のこと。
(1)1587年(天正15)豊臣秀吉が九州平定後,筑前筥崎(はこざき)で発令した6月19日付け
秀吉によるキリシタン禁制定書(バテレン追放令、1587年7月24日))
定
一、日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、太だ以て然るべからず候事
一、其の国郡の者を近付け門徒になし、神社仏閣を打破らせ、前代未聞に候、国郡在所知行等給人に下され候儀は当座の事に候、天下よりの御法度を相守り、諸
事その意を得べき処、下々として猥の儀は曲事の事
一、伴天連其の知恵の法を以て、心さし次第に檀那を持候と思し召され候へハ、右の如く日域の仏法を相破る事曲事に候条、伴天連儀日本の地ニハおかせられ間
敷候間、今日より廿日の間ニ用意仕り帰国すべく候、其中に下々伴天連に謂れざる族申し懸る者これあらハ曲事たるへき事
一、黒船の儀ハ商売の事に候間各別に候の条、年月を経諸事売買致すへき事
一、自今以後仏法のさまたけを成さざる輩ハ商人の儀は申すに及ばず、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、其の意成るべき事
已上
天正十五年六月一九日朱印
〔松浦家文書〕、松浦史料博物館蔵。(清水紘一、『キリシタン禁制史』66~68頁より)
〈定〉5ヵ条。要旨は,日本は神国・仏教国であり,邪法キリスト教が説かれることは不適当であるから,宣教師は20日間以内に国外退去せよとしている。発
令因については諸説がある。この追放令によって宣教師はいったん平戸に集結したが,再び各地に分散・潜伏したため,実際には空文化した。平戸市の松浦史料
博物館に写しが所蔵される。(2)以心崇伝が1613年(慶長18)徳川家康の命により作成した排キリシタン令。通常伴天連追放文と呼び(1)と区別す
る。将軍徳川秀忠の名で公布され,江戸時代を通じて幕府のキリシタン禁制の基本法となった。要旨は,日本が神・儒・仏三教の国であり,キリスト教が日本の
正宗を惑わし政体を改め善悪をそこなう邪教であるゆえに,同教を掃攘するとしている。同令によって翌年には高山右近を含め多数の宣教師がマカオとマニラに
追放された。《異国日記》所収。 清水 紘一
(小学館、『スーパー・ニッポニカ2001』[ライト版]よりの抜粋。)
磔
(はりつけ)
死刑の一方法。西洋ではローマ法の磔が,イエス・キリストの処刑によって名高い。ローマにおいて磔は,はじめ奴隷に対する刑であったが,しだいに下層の
人民,属領の人民,およびローマに対する反逆者に拡張された。受刑者を裸体にして顔をおおい,腕をひろげ,紐または釘で刑柱に打ちつけて刑柱を地上に立て
る。足は両足あるいは片足ずつ釘で刑柱に打ちつけるか,紐で結びつける。身体をささえるために丸太を両脚の間にはさみ,また足の下に板をとりつけた。こう
して受刑者をむちうち,放置しておくと,数日後に飢餓のために死ぬのである。すなわちローマ法の磔は,刀による迅速な死に値しないという侮辱的意味をもっ
た死刑であった。キリスト教の影響によって,コンスタンティヌス帝の末年に磔刑(たつけい)は廃止され,その柱を利用する絞殺に代わった。
日本では,平安時代の末ごろから磔(八付(はつつけ),機物(はたもの)ともいう)が現れ,戦国時代には逆磔(さかさはりつけ)も行われた。江戸時代に
は幕藩において磔を最重の死刑とし,これに鋸挽(のこぎりびき),晒(さらし),引廻し(ひきまわし)などを付加した。江戸幕府は,主殺し,親殺し,関所
破り,通貨偽造などにこれを科し,死後も死体を磔にすることがあった。江戸幕府の磔は槍で突き殺すもので,処刑者の手足を広げて刑柱に縄で結びつけ,着物
を左右の袖わき下から腰のあたりまで切り破って胸に巻きつけ,胴縄,たすき縄をかけて刑柱を起こし,穴に埋めて立てる。突き手2人が左右から槍を持って進
み出て,まず処刑者の面前で槍を合わせ(見せ槍),つぎに左右から交互にわき腹から肩先まで貫き,槍先が肩から30cm
余も出るように突く。24〜30回くらい突くと死体を改め,のどを左右から突き(止め槍),死体を3日2夜さらした。その形状から磔を〈木の空〉といった
が,上方(かみがた)では鉄のかすがいで刑柱に打ちつけるなど,地方によって方法に差異があった。
平松 義郎 (『平凡社 世大百科事典』CDRomより)
足
利義輝/あしかがよしてる/(1536-65)室町幕府第22代将
軍。在職期間は天文15〜永緑8年(1546〜65)。当時既に将軍職はその実権を失っており、実力者三好長慶(みよしながよし)らとの抗争に明け暮れ近
江各地を転々とする。永禄元年(1558)11月長慶と和し、京都に帰還。同3年京都を中心に布教を進めていたイエズス会士ヴィレラらを引見し、布教許可
(禁制3か条)を与えた。政治的手腕にたけた人物であったと伝えられるが、永禄8年(1565)5月、長慶の家宰であり、長慶の没後三好家の実権を奪った
松永久秀により攻め殺された。
ア
ビラ・ヒロン/Avila Giron(生没年不詳)スペ
イン人商人。第3回フィリピン使節として来日したロドリーボス.Aらと共に文禄3年(1594)平戸に上陸。薩摩、鼻馬、七之津を旅して長崎に居住。慶長
3〜12年(1607)の間しばしば東南アジアを旅行。元和5年で日本に滞在したが、その後の消息は不明。滞日記録である『日本王国記』は在俗者の記録と
して稀少であり、当時の日本の習俗や政治情勢を知る貴重な資料である。穀物の売買に際して大小2種の研を使用することを非難するなど、記録を通して彼の正
義感と敬虔さが窺える。
天草ジョアン/あまくさ/生没年不詳)近世初頭の天草領主。天草久種に比定される。天草家を継ぎ、島津氏に従属、棄教を勧告されたが信仰を続けた。天正
15年(芸87)薩摩勢として豊後で豊臣軍と戦った際、大友氏のキリシタン武将志賀太郎により助命された。17年、志岐民ら天草五党と共に肥後に入部した
小西行長らと対戦、志岐城、本渡城と転戦したが、イエズス会巡察師A・ヴァリニアーノの仲介で行長と和解した。19年、イエズス会のコレジヨを自領の河内
浦に誘致。同地で『平家物語』などのキリシタン版が刊行された。文禄の役に従軍。
天
草時貞/あまくさときさだ/(1622頃-38)島原の乱
における一揆軍の首領。本名益田四郎。父は小西行長の旧臣で肥後国宇土郡に帰農した益田好次。後の母親の供述書によれば、9歳の暗から手習、学問を修め長
崎にも遊学したという。農民一揆の首領として推戴され、寛永14年(1637)蜂起した天草勢を赴援。島原・天草両一揆を統合し原城に龍城。激戦を展開し
たが、幕府軍の総攻撃により落城、討死した。彼にまつわる多くの奇跡談や美形の天童であるという人物像は、時貞が一揆勢の精神的・宗教的結束の象徴として
祭り上げられたことを示している。
新
井白石/あらいはくせき/(1657-1725)江戸中期の朱子学
者。6、7代将軍の徳川家宣、家継に仕えて幕政を補佐する。鎖国下の日本へ宣教を目的
に潜入し捕えられたシドッティを尋問し、その情報に基づいて『西洋紀聞』『宋覧異言』等を著わす。これらは鎖国下の日本において西洋事情を紹介した極めて
早期のものであるが、ヨーロッパの知識・技術の優秀さを認めており、後の洋学勃興を導きだす先駆的業績となった。また『天主教大意』では、鎖国の根本理由
であるキリシタン奪国論を否定している。シドッティの人格を評価し、極刑を避けるよう建白した。
荒
木トマス/あらき/(?-1646)江戸時代前期の邦人イエズス会司
祭。転び伴天連。ペトロ・アントニオと称したこともある。セミナリヨを卒業後ローマ
に留学し、司祭となり、マカオ経由で元和元年(2ハ15)禁制下の日本に戻った。同5年長崎で掃えられ、逃亡したが、2日後自ら奉行所に出頭して背教し、
日本在住の宣教師の名簿を渡した。その後荒木は了伯と称し、奉行所から扶持を与えられ、通訳・宗門目明しとしてキリシタン迫害に協力した。寛永17年
(1640)頃からは度々背教の取消しを奉行に訴え出たようであるが、その願いは最後まで認められなかった。
有
馬晴信/ありまはるのぶ/(1561頃-1612)肥前有馬領主。天
正8(1580)年、イエズス会巡察師ヴァリニアーノ・Aから受洗。霊名は最初プロ
タジオ、のちにジョアンに改めた。キリスト教の布教を保護し、その領内には日本最初のセミナリヨが設置された。ヴァリニアーノの勧めで、大友義鎮(よしし
げ)、大村純忠とともに天正道欧使節を派遣。浦上の所領をイエズス会に寄進したほか、禁教後も宣教師らを匿う。慶長14年(1609)長崎でポルトガル船
ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号を撃沈するが、岡本大八事件に関係。除封の上甲斐に流され、同国東山梨郡大和村でキリシタンとして斬首された。
ア
ルメイダ・L/Luis de Almeida,sj/1525
-83/イエズス会司祭。リスボンのユダヤ系家庭に生まれ医学を学ぶ。1548年貿易商としてインドへ渡った後、イエズス会と交わり、天文21年
(1552)平戸に上陸後、山口で布教を助けた。弘治元年(1555)私財を投じて豊後府内に育児院を開き慈善活動に従事、翌年イエズス会に入会。同3年
総合病院を設立し、西洋医学を通じて貧民層へ布教した。水禄4年(1561)博多より平戸、鹿児島へ伝道、さらに島原各地を巡回し、永禄7年末より関西布
教へ。同9年には島原、天草に開拓伝道。天正8年(1580)マカオで司祭叙階。翌年より天草地区の院長となり、河内浦で死去。
イ
グナチィウス・デ・ロヨラ/ロヨラの聖イグナチオ/S.Ignacio de
Loyola,sj(1491-1556)
イエズス会創設者。バスク貴族の子として生まれる。若くしてカステイーリヤの貴族の宮廷に仕えて後、ナヴアラ副
王の下で軍務に服していた。1503年パンプローナ砦の防衛戦で重傷を負い、治療の床で修養書を読んで回心。翌年1年間マンレサの修行で神秘的体験を得、
『霊操』を著す。パリで神学の学びにあった1534年8月、6名の友人とモンマルトルの聖堂でイエズス会を設立。37年司祭に叙階。41年
初代総長に選出。44〜50年、ローマでイエズス会会憲の作成に着手、同地で没。1622年に列聖。
石
垣永將/いしがきえいしょう/(1580-1635)近世
初頭の琉球で起こった八重山キリシタン事件の中心人物。本宮良(もとみやら)とも称す。豊後王4年(1624)石垣島に布教のため上陸したドミニコ会士ル
ユダ神父と交流。受洗後薩摩側の要求により、1635(寛永12)、流刑他の渡名喜(となき)島から石垣島に呼び戻され焚刑に処された。この事件を契機に
琉球に対する宗門改めと南蛮船の来航を排除する体制が強化された。
板
倉重昌/いたくらしげりまさ/(1588-1638)江戸時代前期の
譜代大名。従5位下、内膳正。勝重の3男、重宗の弟として、駿府に生まれる。慶長8
年(1603)家康に仕え、のち近習出頭人となる。同19年方広寺の鐘銘を問題としし家康に報告。大坂冬の陣講和に際し豊臣秀頼の誓書を実理した。寛永元
年(1624)三河深溝(ふこうす)城主、さらに新墾出を合わせて1万5000石。同14年島原の乱鎮圧の上使として出向したが、九州諸大名を統率しきれ
ず攻めのぐねていたところに、老中松平信綱派遣の報を受け、翌15年元日原城に総攻撃をかけた。けれども銃創を貝い戦死し、攻囲中の幕藩軍に衝撃を与え
た。
一
条兼定/いちじょうかねさだ/(1543-85)土佐国司。キリシタ
ン公家。関白一条教房の4代後に当たる。何の弟は豊後国土大友宗麟。長宗我部元親に
土佐を逐われたが、流寓先の豊後・臼杵の教会でキリシタン宗門に触れ、天正2年(1574)頃J・バウティスタから受洗した。洗礼名はパウロ。宗鱗の娘を
めとり、土佐に帰還しようとしたが、元親の策略にかかり頓挫。晩年は南予宇和島と臼杵の間の孤島・戸島で暮らし、同地で没。
伊
東マンシヨ/いとう/1569頃-1612/天正道欧使節の1人。日
向出身。天正5年/1票(/薩摩島津氏の圧迫により、生家の伊東1族が豊後に亡命し
た際家族離散。ラモン・Pに引き取られ成長し受洗。有馬セミナリヨで修学。遣欧使節行では大友義鎮の名代として首席となり、スペイン国王
やローマ教皇に謁見した。帰国後、19年豊臣秀吉に謁し、天草の修練院でイエズス会に入会。慶長6年マカオに派遣され、同地で修学を継続。8
年司祭叙階。九州各地の布教に従事し、長崎で病没。
井
上政王/いのうえまさしげ/(1585-1661)江戸時代前期の幕
臣。初代宗門改役。清兵衛と称す。3代将軍家光に仕え、寛永2年/162王/目付と
なり、同4年従5位下筑後守に叙任された。同9年には最初の大目付となった。同15年島原の乱で上使として島原に赴く。同17年加増により上総国で1万石
を領した。この年から度々長崎に下向し、幕府の鎖国・禁教政策徹底のため、異国商船の取締いとキリシタン禁更改策実什汀のユ土導者となり、幕待とそ
の後小西行長につかえ、同16年イエズス会副管区長コエリョ・Gの葬儀に参列。文禄・慶長の役に従軍、講和のため北京で明国政府と交渉。慶長5年
(1600)、行長の敗死後、金沢に移住。19年高山右近及びその妻子、都の修道院(ベアタス会)院長であった妹ジュリアらと共にマニラに追放され、同地
で病没。
中
浦ジュリアン/なかうら/1569頃-1633)天正少年
遣欧使節の1人。イエズス会司祭。殉教者。肥前中浦生まれ。大村純忠より少年使節の副使として遣わされる。慶長13年(1608)司祭に叙階。博多を中心
に布教し、禁教後は肥前口之津から九州各地に布教。寛永9年(1632)小倉で捕えられ、翌年長崎で穴吊しの刑に処せられた。純粋な信仰心の持ち主で、最
期に「私はローマを見た福者中浦ジュリアンだ」と叫んだといわれている。
日
乗/にちじょう/(?-1577)戦国末期の政僧。美作
(1説には出雲)出身、朝山氏。一族の滅亡後、京へ上り弘治元年(1555)頃出家し、後奈良天皇から上人号を賜わる。織田信長入京後、その統1事業に参
画した。キリシタン宗門に対しては排撃的で、永禄12年(1569)信長の面前でフロイスやロレンソと宗論を行い激昂のあまり抜刀したと伝えられる。ま
た、キリスト教擁護者の和田惟政を陥れるのに成功するが、後に信長から勘当され、失脚。
橋
本太兵衛/はしもとたひょうえ・テクラ夫妻/(〜-1619)京都の
殉教者。太兵衛の霊名はジョアン。桔梗屋と称した。だいうす町の有名なキリシタンと
して知られる。太兵衛の父親も熱心な信者であったらしい。元和5年(1619)六条河原でキリシタン52名が処刑された際、太兵衛夫妻は子供達5名ととも
に、一家で焚刑に処された。イエズス会の年報によれば、その時妻テクラは身重であり、左右に縛られた子供達を励ましながら壮絶な最期を遂げたという。
支
倉常長/はせくらつねなが/(1571-1622)江戸初
期の仙台藩士。慶長18年(1613)伊達政宗の命を受け、フランシスコ会士ソテーロとともに慶長遣欧使節として日本を出発、ローマに向かう。翌年ノビス
パン(メキシコ)経由でスペインの首都マドリッドに到着。1614年国王フェリーペ3世に政宗の書状を呈し、通商条約の締結を求めるが不成功に終わった。
同地で洗礼を受ける。霊名フェリペ・フランシスコ。同年教皇パウロ5世にも謁見を許され、政宗の書状を呈す。元和6年(1620)マニラ経由で帰国する
も、政宗はキリシタン弾圧を強行。不遇のまま没す。
ハ
ビアン/Fabian Fukan/1565-1621
/棄教したイエズス会の邦人イルマン。不干斎と称した。加賀又は越中国に生れる。臨済宗の僧侶であったが、天正11年(1天3)京都で受洗し、同14年イ
エズス会に入会。慶長10年(1605)護教の立場から『妙貞問答』を著し、翌年儒学者林羅山と論争するなど唯一の日本人イデオログとして活躍するが、女
性問題から13年(1608)イエズス会を脱会、棄教した。17年禁教発令以降は、長崎で幕府のキリシタン迫害に協力した。僧名は恵春(俊)。元和6年
(1620)反キリシタン書『破提宇子』(はだいうす)を著し、翌年長崎で没した。
林
羅山/はやしらぎん/(1583-1657)安土桃山末期から江戸初
期の儒学者。剃髪して道春と称す。京都四条新町出身。はじめ建仁寺にはいり儒仏を学
ぶが、やがて藤原怪裔に師事。慶長10年(1605)徳川家康に謁し、侍講となる。その頃から排耶論を唱え、11年京都南蛮寺でハビアンと論争し、『排耶
蘇』を著した。また仏教に対しては排仏論を唱えた。著述は『本朝編年録』『三徳抄』等150余に及ぶ。以後家綱まで4代の将軍に仕え、外交文書の作成、典
礼・格式の整備にあたるなど幕政に貢献。寛永7年(1630)上野忍岡の賜地に後の昌平坂学問所にあたる家塾を開く。
原
マルチノ/はら/Martino do Campo,sj/1569
頃〜1629)天正遣欧使節の副使。肥前大村領波佐見に生まれる。天正10年(1582)長崎を出発。ローマで使命を果し、帰途ゴアで巡察師ヴアリニァー
ノ・Aに感謝の演説をラテン語で行ったが、同演説文は印刷に付されキリシタン版の先駆となった。18年帰国し、イエズス会に入会。慶長13年(1608)
司祭に叙階。同18年にはイエズス会日本管区秘書になる。翌年強行された宣教師追放により、マカオに渡航。同地でロドリーゲスの『日本教会史』執筆の協力
をする。日本イエズス会中卓越した才能と学識を有し、特にキリシタン版の刊行に貢献した。
幡
随意白道/ばんずいいびゃくどう/(1542頃-1615頃)近世初
頭の浄土宗の僧。相模(一説には紀伊)出身。京都百万遍知恩寺の33世住持。徳川家
康に召され慶長8年(1603)には江戸駿河台に寺地を与えられ、新知恩寺を創建する。17年(1612)家康の命を受け島原に下向し、長崎奉行長谷川藤
広と共にキリシタンへの教諭にあたる。その翌年、長崎にも立ち寄り、伴夢というキリシタンと宗論し、これを論破したと伝えられている。しかし生没年や右の
事蹟についても、史料によって異説がある。
キ
アラ・G/Giuseppe Ciara,sj
1602-85)イエズス会司祭、転(ころ)び伴天連。日本名岡本三右衛門。イタリア人。1635年リスボンを出港、カンボジア布教などに従事したが、日
本布教の熱意から寛永20年(ニハ望/ルビノ・A第2厳に加わり、筑前国に潜入。間もなく捕縛され、将軍家光を含めた幕府側の詮議を受け、念仏を唱え乗数
した。その後日本名、妻、10人扶持を下され、宗門改め役の配下として江戸切支丹屋敷・に死ぬまで幽囚の身となった。その間キリシタン教理についての書物
を認めたり、キリシタン器物の検分に携わった。
清
原枝賢/きよはらのしげかた/(1520-90)キリシタ
ン公家。唯1神道の大成者吉田兼倶(かねとも)の曾孫。天文4年(1塁吾元服後清原家世襲の大外記(だいげき)に進む。少納言・侍従を経て宮内卿。和漢に
通じた学者でもあった。永禄6年法華宗徒松永久秀の反キリシタン政策として画策されたヴィレラ・Gとの宗論で、かえって入信。五畿内のキリシタン宗門の発
展に大きな影響を与える。天正9年正3位に叙された後出家し、道白と称した。その頃棄教したといわれる。彼の娘マリアは細川忠興夫人に侍女と′して仕え、
セスペデス・Gの指導の下にガラシャの霊名で洗礼を授けた。
グ
ティエレス/Bartolome
Gutierrez(1580-1632)殉教者。近世初頭の聖アウグスチノ会日本管区長代理。メキシコ出身。1597年に入会。1606
年マニラに渡り、
慶長17年来日。豊後臼杵で修院長として布教にあたるが、19年の大追放でマニラに帰還。その後同会の日本上長となり、元和4年日本に潜入し、約10年間
長崎を中心として布教に従事。寛永6年/2ハニ9)肥前喜々津で捕われ、大村牢に拘禁。雲仙で温泉責めの拷問を受けるが屈せず、長崎立山で火刑に処せられ
た。慶応3年/1867/列福。
黒
田孝高(くろだよしたか)(1546-1604)キリシタ
ン大名。姫路生まれ。官兵衛、号は如水。従5位下。織田信長、豊臣秀吉に仕え、荒木村重が背くと説得のため有岡城に入るも逆に抑留され、のち救出された。
本能寺の変勃発に伴い畿内に向かう秀吉の殿(しんがり)を務め、山崎、次いで餞ケ岳戟、九州の役に従軍。家督を嫡子長政に譲った後も軍師として活躍、小田
原合戦、朝鮮出兵に功をたてた。関ケ原では長政と共に東軍につき、筑前に移封。天正11年(383/高山右近に勧められて受洗し、シメアンと称す。小西行
長らキリシタン大名の遺臣を多く召し抱えた。
コ
エリユ・G/Gaspar Coelho,sj
1530頃-90/イエズス会初代日本準管区長。ポルトガルのオボルト生まれ。1556年ゴアでイエズス会入会。60年頃司祭に叙階。71年マカオへ渡
り、元亀3年(3塁)来日。下(しも)地区の上長として大村領で布教、天正2年領民を集団改宗に導く。同9年日本の準管区昇格に伴いA・ヴァ
リニアーノにより準管区長に任命され、加津佐で死去するまで同職にあった。同14年畿内巡察。大坂城に秀吉を訪問し、布教許可状を獲得してい
る。
小
西行長/こにしゆきなが/(1558頃-1600)キリシタン大名。日向守、摂津守。霊名アゴスチイノ。前半生ははっきりしないが、字書
多家に仕え、つ
いで豊臣秀吉に従った。伴天連追放令に伴い、オルガンティノを自領の小豆島に匿う。天正16年肥後12万石。文禄元年の朝鮮の役には第1軍を率い、京城、
平壌を陥れる。明将沈惟敬(しんいけい)との間で和議を進めたが、秀吉の意図と合わず、再出兵の端緒となった。関ケ原戦においては西軍につき、近江伊吹山
中で捕縛されるが、キリシタンたるが故に自ラング商館との窓口としての役割も果した。江戸小石川の自邸(切支丹屋敷/を宗門改めの役所とし、転びの方針を
持って全国のキリシタン根絶に取組んだ。その成果と心得は『契利斯督記(きリしとき)』 にみられる。
岩
倉具視/いわくらともみ/(1825-83)幕末・明治前期の政治家。安政元年侍従となり、和宮降嫁問題等に関与したが、専撰派に糾弾さ
れ洛北に逼塞。
慶応3年(1867)復帰、王政復古を推進。新政府の参与・議定・副総裁を歴任。明治4年(1871)の道外使節行には、大久保利通・伊藤博文ら副使を率
いて特命全権大使となり、欧米諸国を歴訪。目的は、先進諸国の文物制度の視察と、幕末期の不平等条約改正の予備交渉にあったが、条約交渉は不調に終わっ
た。けれどもその過程で寄せられた浦上問題に関する欧米側の批判は、6年の切支丹禁制高札撤去の背景となった。
岩
永(いわなが)マキ/1849-1920)明治〜大正期の
社会福祉事業家。浦上キリシタンの1人。同本原郷に生まれる。明治2年(18究/岡山藩領内の瀬戸内海に浮かぶ周囲4キロ程の無人島に配流され、荒地開墾
の苦役に従事。浦上に帰り、翌年同村に赤痢が蔓延した時、マキら4人はド・ロ・M神父を助け、救護活動に献身した。その後も、天然痘患者の介護や孤児の養
育を行った。マキ達の奉仕団体は、6年十字会と名づけられた。現在お告げのマリア修道会が、同事業を継承。
ヴァ
リニアーノ・A/Alessandro
Valignano,sj/1539-1606)イエズス会巡察師。ナポリ生まれ。ガリレオら多くの知識人を輩出したヴェネツィア領パド
ヴァ大学で法学を
修める。1566年イエズス会入会。ローマ字院で修学、70年司祭叙階。73年東インド巡察師に就任。天正7年7月口之津に上陸。生糸貿易問題
を解決し教会の財政的基盤を鷹立する一方、通信制度の刷新、諸教育機関の設立、礼法指針の作成、遣欧使節の派遣等を精力的に指導した。第2回の来日では活
版印刷機を将来、豊臣秀吉と会見。第3回の来日では長崎に滞在し、日本教会の基礎を固めた。慶長7年を最後に離日し、マカオで中国伝道に尽
力。同地で没した。
ヴィ
レラ・G/Gaspar Vilela,sj
1525-72)ポルトガル人イエズス会司祭。弘治2年(言葉)豊後府内に上陸。平戸と博多で伝道後、永禄2年(云完/以来京都開教に尽力。同3年夏、将
軍義輝より布教許可状を得、苦心の末、姥、柳町に住居を得る。同6年には宗論の末清原枝賢(きよはらのしげかた)、結城(ゆうき)忠正ら公家や国人層を改
宗させ、5畿内布教の基を固めた。同8年伴天連(ばてれん)追放の女房奉書「大うすはらひ」が出されると堺に退避。翌年トルレス・Cの命により豊後に帰
還。元亀元年秋に離日、ゴアで死去。
養
鶴徹定/うかいてつじょう/(1814-9こ幕末〜明治前期の浄土宗排耶僧。順誉、杷憂道人、古漢などと号する。筑後出身。江戸増上寺で
修学。文久元年
武蔵岩槻浄国寺住職となり、排耶活動による書法に尽力。慶応4年/18宍/の神仏分離に危機感を高め、東京の諸宗同徳会盟の中心人物として、仏教による王
法護持を政府に建白する。東京誓願寺、伝通院を歴住。著書に『闘邪管見録(びゃくじやかんけんろく)』 『南蛮寺興廃記』 『笑耶論』 などの排耶吾があ
る。
宇
久純尭/うくすみたか/1546頃-79頃/戦国時代のキリシタン武将。5島の領主純定の庶子。永禄10年にロレンソの説教を
聞き入信を決
意、同年の4旬節に受洗した。洗礼名はドン・ルイス。キリスト教を擁護した純定の死後、宇久氏を継いだ純定の孫純玄(すみはる)と争い、棄教を迫られたた
め男女・子供等300名ほどのキリシタンとともに長崎へ亡命した。2年後島津氏の仲介により5島へ帰るが、領主純玄らに再び棄教を迫られ、やむなくこれを
受け入れたと推定されている。なお、宇久氏は文禄元年/1票ニ/に5島と改姓している。
大
内義隆/おおうちよしたか/(1507-151)周防・長
門など7か国の守護大名。文芸を好み、文化振興に貢献し大内版を開版するなど、その本拠地山口の最盛期を現出した。天文19年、領内を通過したザビエルを
引見。翌年3月、京都の荒廃に落胆し、山口を布教の中心とするために戻って来たザビエルと正式に会談した。義隆自身はキリスト教を信奉しなかったが、領内
でのキリスト教の布教を許可し、廃寺や地所を提供するなどした。しかし同年9月、家臣である陶晴貿(すえはるかた)の反逆にあい自殺した。
正
親町天皇/おおぎまちてんのう/(1517-93)第106代(在位1557-86年)。詳は方仁(いみなみちひと)。後奈良天皇の第2
皇子。弘治3年
/3宅/父の後をうけ践詐(せんそ)。財政難のため、毛利元就(もとなhリ)の献資により即位。織田信長入京後、信長及び秀吉による国内統1事業が進む
と、天皇は皇室の権威をもってこれを助成した。そのため織豊2氏によって皇居の造営・伊勢神宮の造替・皇室式典の整備等がなされた。永禄8年7
月と同12年4月、宣教師追放の女房日本人となった。1702年ピョートル大帝に謁見。日本の事情を伝え、日本に対する興味を喚起した。5年、勅命により
ペテルブルグに日本語学校が創設されると、伝兵衛は教官に任命された。10年ロシア正教会で受洗。聖名ガヴリル。日本に帰国することはなかった。
徳
川家光/とくがわいえみつ/(1604-51)江戸幕府第3代将軍。秀忠の次男。元和9年継職。日光東照宮大造営に見られる如く
ひたすら祖父家
康を尊崇した。大御所秀忠の死去に伴い2元政治を解消し、職制・法制の整備を進め、寛永12年(1635)武家諸法度の大改訂により総括した。病気がち
だったこともあり、閣僚協議体制を中心とする行政機構を整えたが、以降将軍の個性による政治は影を潜めることとなった。島原の乱をはさみ、オランダ商館の
出島移転をもっていわゆる鎖国体制を構築し、キリシタン禁制を祖法として徹底した。
徳
川家康(とくがわいえやす/(1542-1616)江戸幕府初代将軍。三河に生まれ、幼少期を織田・今川両氏の人質として過ごすが、織田
信長との提携に
より独立。豊臣秀吉政権の5大老筆頭となり、関ケ原戦で武家政権の棟梁の地位を確立した。慶長8年(1603)征夷大将軍、従1位右大臣。将軍職を秀忠に
譲った後も駿府にあって2元政治を展開し、元和2年3月太政大臣、翌月病没。岡本大8事件を契機としてキリシタン禁制に乗り出し、伴天連追放文を発布、キ
リシタン総奉行を設置したほか、高山右近らを国外追放とした。
徳
川秀忠/とくがわひでただ/(1579-1632)江戸幕府第2代将軍。家康の3男。関ケ原の戦場に遅参し家康の勘気を被るが、諸将の取
りなしにより赦
され、慶長10年(1605)将軍継職、正2位内大臣。元和2年8月鎖国体制の原形となるヨーロッパ船の平戸・長崎集中令を発布。同5年8月京都、8年8
月長崎にてキリシタンを大弾圧するなど、禁制に努めた。同9年家光に将軍職を譲り、大御所政治を布く。
豊
田貢/とよたみつぎ/(1774-1829)京坂キリシタン事件の中心的人物。越中の農家に生まれ、京都に女中奉公にでる。その後、土御
門配下の陰陽師
斎藤伊織と結婚し、離別。文化7年『天主実義』を独学した水野軍記から天帝如来の法を伝授され、軍記の門に入る。8坂上町で祈蒔師の名で生活。軍記の死
後、彼が結成した秘密教団の中心人物になった。文政10年(1827)門弟の京屋ゝさのらが、大坂東町奉行所与力大塩平8郎ら′に摘発され発覚。貢も捕え
られ、主要人物とともに大坂市中引き回わしの上切支丹として礫刑に処せられた。
豊
臣秀吉/とよとみひでよし/(1537-98)安土桃山時代の武将。尾張の百姓の子に生まれるが、織田信長に仕え累進。本能寺の変勃発
後、明智光秀を討
ち、信長の後継者の地位を固める。天正13年従1位関白、翌年太政大臣となり豊臣姓を名乗った。同15年伴天連追放令を発し、キリシタン禁制政策に転じ
た。同18年天下統1を成し遂げ、関白を甥の秀次に譲り、自らは太陽として2度にわたり大陸侵略を狙って朝鮮に出兵したが失敗。慶長元年サン・フェリーペ
号の漂着事件を契機とし、長崎で托鉢(たくはつ)修道会士らキリシタン26名を処刑した/26聖人殉教事件)。
ドーラード/Constantino Dourado,sj/1567
頃-1620)天正遣欧使節の随員。肥前の国諌早出身。有馬のセミナリヨで修学した川 天正1年ヴァリニアーノ・Aたより遣欧使節団に加えられ、洋式活版
印刷技術を学び、帰国後キリシタン版の制作に関わった。文禄4年/3豊/イエズ大会に入会し、J.ヴァリニアーノの秘書のほか有馬セミナリヨでラテン語や
鍵盤楽器の教師を務めた。慶長19年(16苗)の大追放によりマカオに逃れた。元和2年(162ハ)マラッカで司祭に叙階され、翌々年マカオのセミナリヨ
長に転任し、同地で没した。
ト
ルレス・C/トーレス・トレスとも)Cosme de
Torres,sj/(1510-1570)イエズス会司祭。スペインのバレンシア生まれ。司祭となって1538年メキシコに渡る。モルツ
カ諸島のアンボ
ンでザビエルと出合い、46年ゴアでイエズス会入会。天文18年(1549)ザビエルと共に来日。鹿児島、山口、平戸で布教。同20年第2代布教長とな
る。翌年大内氏より大道寺裁許状を下付され、大友氏の保護下で豊後、府内に教会を建設。永禄5年大村純忠に受洗。元亀元年まやの約
20年間、領主層との対応から庶民層の子供の教育まで幅広く関心を示し、開教後の日本教会の基礎を固めた。天草下島の志岐で死去。
内
藤(ないとう)ジョアン(如庵じょあん)/〜-1626)
キリシタン武将。丹波8木城主。父は松永久秀の弟、甚介。忠俊、徳庵、如安とも称した。永禄8年、京都で受洗。天正2年/1彗4/にフロイスーL
とイルマン・ロレンソを迎え、城内に設けた祭壇でミサや説教を催したという。朱印状を得る。1586頃近世初頭の長崎町年寄、朱印船貿易家。洗礼名ペト
ロ。元和3年(1617)家督を譲られ年寄職を継ぐ。その頃棄教。寛永14年の島原の乱に際し、長崎を守衛した功で、翌年将軍家光から時服と白銀を拝領し
た。
高
木仙右衛門/たかぎせんうえもん/(1824-99)浦上
4番崩れの際、志操を買いた中心人物の1人。慶応元年大浦天主堂で、プティジャンに信仰を表明。自宅を秘密の会堂とし、礼拝と教理の学習に努め
た。慶応3年発覚、投獄・拷問の責苦を受け、棄教を迫られたが屈せず保釈。維新後、長崎裁判所により、村民とともに.津和野(島根県)に流され、飢餓と拷
問に責められたが、信仰を堅持した。明治6年浦上に帰村。十字会に財産を寄進し浦上天主堂の建設に奔走したほか、伝道者として活動した。
高
山右近(たかやまうこん/(1552頃-1615)キリシタン大名。高山飛騨守(ダリオ/の長男として摂津高山に生まれる。永禄7年日本
人イルマンのロ
レンソから受洗。霊名ジュスト。荒木村重に従い高槻城主となる。1村重離反の時、織田信長の意を受けたオルガンティノの勧告に従い開城し、本領安堵され
た。豊臣秀吉のもとで功を重ね、明石6万石に加増転封。天正15年伴天連追放令に伴い改易され、流浪後前田利家に仕えた。慶長19年
(1614)徳川家康の命でマニラに追放。篤い信仰心をもって領民の改宗に努め、蒲生氏郷、黒田孝高らを改宗に導いた。南坊(みなみのぼう)と号し利休七
哲の1人でもあった。
竹
中重次/たけなかしげつぐ/(〜1634)江戸初期の長崎
奉行。豊後府内2万石を領した外様大名。寛永6年長崎奉行に就任し、キリシタン禁制を強化した。その方法はまず海陸を封鎖し、前任者が作成したキリシタン
名簿から信者を悉く調査・検挙して棄教を迫り、応じない者に瀕拷問や責苦を加えたという。また転宗者に対しては絵踏と朝夕2度の墓参りを課した。のちキリ
シタンの取締りが不十分であることや、中国船に課税したこと、賄賂をうけたこと等の不正を長崎代官末次平蔵らによって訴えられ、免職。子源3郎と共に自害
した。
伊
達政宗(だてまさむね/(1567-1636)近世初頭の仙台藩主。東北を中心に勢力を伸展。.豊臣秀吉、徳川家康に相次いで仕え、仙台
藩62万石の基
礎を築く。フランシスコ会の布教を助け、同会士ソテーロの提言を受け、慶長18年(1613)、支倉常長、ソテーロを特使とした慶長遣欧使節をスペイン、
ローマに派遣した。キリスト教の布教活動と連携したスペインとの通商活動に期待したものとされる。支倉らが通商条約締結に失敗して帰国すると、政宗は1転
してキリシタン弾圧を開始した。寛永13年江戸出府中、桜田藩邸にて死去。
長
助(ちょうすけ)・はる夫妻(〜-1714)江戸小石川切支丹屋敷の雑役。両人は黒寿魔の「奴稗」/新井白石)で、切支丹屋敷の使用人と
して拘束され
ていたらしい。屋敷内においてキリスト教に触れていたが、洗礼は受けていなかった。しかし鎖国下の日本に宣教目的で潜入し、同所に囚禁されていた在俗司祭
シドッティに感化され、教えを請い夫婦ともにシドッティから洗礼を受ける。正徳4年(1714)奉行所に信仰を宣言し禁獄され、半年後の同年10月長助死
亡。55歳であったとされる。それを追うようにはるも死亡。夫妻の墓は史蹟として現存。
津
軽信牧/つがるのぶひら/1586-1631/キリシタン
大名。洗礼名ジョアン。右京大夫為信の次男。文禄4年十歳のとき父の感化により京都で受洗した。慶長6年こ従5位下越中守。同12年に
は遺領の4万5000石を継ぐ。同10大年には新築していた弘前城に移転。同年徳川家康の養女満天姫と結婚した。大坂冬の陣に際しては居城にあって本領を
守った。同19年京坂のキリシタン/京都47名、大坂24名、加賀藩の武士5名とその妻子/が津軽流刑とされた際、荒地の開墾に従事させた。
ディ
エゴ・デ・サンフランシスコ/1575頃-不詳)近世初
頭のフランシスコ会日本宣教長。スペイン出身。洗足派の聖パウロ管区で入会。1603年司祭叙階。06年マニラに渡り、09年同地で修練長。慶長17年来
日。翌年伴天連追放令が発布されるが残留し、江戸の礼拝堂付療病院で活動。元和元年捕われるが、翌年釈放されメキシコに渡航。同4年長崎に渡来。寛永3年
東北地方の各地で布教。その後大坂に滞在し、以降消息不明。著作は 『ディエゴ・デ・サンフランシスコ報告書簡集』 として訳刊。
伝
兵衛/でんべえ/(生没年不詳)ロシアに入国した大坂の商
人。元禄8年大坂から江戸に船で積荷を輸送する途中に遭難し、翌年カムチャッカ半島南岸に漂着した。コサック首領アトラソフに出会い、彼のもと
でロシア語を習得した後、ロシア本国に渡り、同国に入国した最初の永5年配下の浜田弥兵衛がオランダ人と衝突(台湾事件)。これが原因で幽閉され、最後は
悶死したという。
鈴
木正三/すずきしょうさん/(1579-1655)江戸前
期の禅僧、仏教思想家。通称九太夫。三河国で生れる。徳川家に仕え、関ケ原戟、大坂の陣で武功をたてたが、元和6年42歳で出家した。諸方を旅
し、岡崎の石平山に恩真寺を開創。島原の乱後は天草代官の弟鈴木重成を助け、キリシタン宗門の影響を除くため、寛永19年から3年間で天草に32寺を建立
し、人心の教化につとめた。またキリシタン教理を仏教の立場から論難する『破吉利支丹』を著した。思想面では独創的な仏教思想を展開し、仮名草子の先駆者
としても有名である。
ス
ニガ・P/Pedro de Zúñiga/〜-
1622/近世初頭のアウグステイノ会士、殉教者。スペイン人。1604年セヴィリヤの修道院に入り、同10年フィリピンに渡航。元和4年(1618)禁
制下の日本に渡ったが、翌年マニラに戻った。その後元和6年に、管区長代理としてドミニコ会士フローレス・Lとともに堺の商人平山常陳の船で日本潜入
をはかったが、同船は台湾沖で英国船により拿捕(だほ)され、平戸オランダ商館に監禁された。2年余の拷問を伴う厳しい取調べに耐えたが、元和7年ついに
身分が明かされ、翌年常陳、フローレスらと長崎で火刑に処された。
ス
ピノラ・C/Carlo
Spionola,sj/1564-1622/イエズス会司祭。殉教者。イタリア・ジュノヴァの出身。1594年司祭叙階後、西インド諸島
で宣教。98年
マカオへ渡り同管区のプロクラドール(管理者)に就任。慶長7年(1603)長崎に渡来、有馬、有家(ありえ)に布教。同10年都に移り、京都南蛮寺で会
計職のかたわら小天文台を設け、科学知識を日本人に紹介。同17年の禁教令以後各地に潜伏して宣教。元和5年(1619)長谷川権六の命により召縛られ、
大村の鈴田牢に送られる。牢内において同牢の日本人3名をイルマンに叙階。同8年長崎立山で火刑。慶応3年(1867)列福。獄中書簡が『鈴田の囚人』と
して翻訳されている。
雪
窓宗崔/せっそうそうさい/(1589-1649)近世初頭の臨済宗の僧。豊後国直入郡出身。多福寺・法隆寺・妙心寺等で修学、道俗の高
い評価を得た。
寛永17年(1640)泉涌寺(せんにゅうじ)如周等の推挙により後水尾(ごみずのお)天皇に招かれ、麻三斤の則(仏法)を評す。正保3年(1646)紫
衣勅許を受け、妙心寺に出世するがまもなく辞す。翌年長崎に赴いて四次にわたる排耶説法を行い、真宗や浄土宗の反発を受けるが、1万8000人余が受戒し
たという。排耶書『対治邪執論』のほか『禅教統論』『層楼篇』などの著書がある。
セ
ルケイラ・L/Luis de
Cerqueira,sj(1552-1614)イエズス会司祭。日本司教。ポルトガル出身。1566年イエズス会入会。エヴォラで修学、
神学教授とな
る。93年に府内司教(豊後)に任命されたマルティンス・Pの補佐となり、同年司教に叙階。94年リスボン出航。慶長3年(1598)8月に府内司教とし
て長崎に到着。府内の政治情勢悪化のため、同6年長崎に司教座聖堂を持つ聖母被昇天教会を建設。5名の日本人を司祭に叙階するなど、日本人司祭の養成に努
めた。典礼書『サカラメンタ提要』の編纂を指示。彼の死後、家康の大追放が発令される。
宗
義智/そうよしとも/(1568-1615)キリシタン武
将。対馬国主。天正18年(1590)頃、小西行長の娘マリヤと結婚。マリヤの感化により、天正19年(1591)イエズス会巡察師ヴァリニアーノ・A上
洛の際、極秘に受洗した。洗礼名はダリオ。文禄の役では行長とともに先鋒を務め、慶長の役にも従軍した。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは西軍に属
したが、戦後、徳川家康から対馬領を安堵された。のちに妻のマリヤと離別し、教会とも交渉を絶ち棄教した。大坂冬の陣の最中に病死した。
ソ
テーロ・L/Luis Sotelo1574-1624/
フランシスコ会士。殉教者。スペインのセヴィリヤに生まれる。サラマンカ大学に学び、1594年フランシスコ会入会。99年スペインを出航し翌年フィリピ
ンに到着。マニラ近郊で日本人に布教。慶長8年(1603)フィリピン総督使節として来日。同18年(1613)江戸で捕えられたが伊達政宗の仲介で助命
され、同年政宗の慶長遣欧使節の1行180余名と共に月の涌出航。同20年マドリッド、ローマで国王、・教皇に謁見。布教援助の目的を達せぬまま1617
年スペインをたち、元和8年(1622)マニラから潜入して捕えられ、大村牢に入牢。放虎原で処刑された。
高
木作右衛門/たかぎさくえもん/(1553-1629)近
世初頭の長崎町年寄、朱印船貿易家。洗礼名ルイス。元亀元年(1570)長崎開港後、長崎の頭人になる。文禄元年(1592)町年寄になり、慶長12年
(1607)長崎奉行小笠原一庵の失脚に関係した。元和2年(1616)モルツカ諸島宛の害を拒み、石田三成らと共に京都で斬首された。
コ
リヤード/(1589頃-1641)ドミニコ会日本管区長代理(在任1622-22年)。スペイン出身。元和5年(1619)長崎に渡来
し、有馬・長崎
等で活動したほか、平戸で捕えられていたフローレスの救出を試み失敗。元和8年8月5日長崎で元和の大殉教を目撃し同記録を残したほか、26聖人の列福調
査書を作成した。翌年ローマに赴き、日本イエズス会を批判した。1635年マニラに至り、月本再入国を期したが果たせず、帰路インド洋上で遭難死した。な
お『日本文典』『羅西日辞典』などの編著がある。
ザ
ビエル・F (S.Francisco Javier/Xavier)/(1506-52)イエズス会創立者の1人。キリシタン宗門の日
本開祖。スペインのナヴァラ王国に生まれる。1525年パリの聖パルバラ学院
に入学、ロヨラのイグナチオと親交を重ねる。34年モンマルトル聖堂で献身を誓約、イエズス会を創立。41年リスボンを出航、翌年以降インド布教に従事。
47年マ
ラッカで鹿児島出身のヤジロウに出会い、彼の人柄に接し日本布教を決意。天文18年(1549)7月鹿児島に上陸。翌年入洛したが京都の荒廃を目にして山
口の大内氏の下で布教。天文20年10月豊後府内からインドに帰還。中国布教の必要性を感じ、翌年広東付近の上川島に上陸したが、1552熱病のため同地
で没。1622年に列聖。
沢
宣嘉/さわのぶよし/(1835-73)幕末・維新期の政治家。主水正。急進的な専壊派公家として活動、文久3年(1863)8月18日
の政変で失脚。
長州を拠点として倒幕運動に挺身した。慶応4年(1868)維新にあたり復帰。参与となり外国事務総督兼九州鎮撫総督、ついで長崎裁判所総督に任じられ下
向。旧幕時代から引継いだ浦上キリシタンに対し、国家神道的立場から弾圧を強行、信徒3千人余を各地に配流した。明治2年(1869)外務官知事、同年か
ら4年まで外務卿。盛岡県知事を経て露国駐在特別全権大使となったが、赴任前に没。
三
条実美/さんじょうさねとみ/(1837-91)幕末・明治前期の政治家。安政元年(1854)侍従となり、尊壊派公卿の中心的人物の1
人として活動。
文久3年(1863)の8月18日政変では、同急進派として長州に追われた。慶応3年(1867)の王政復古により復帰。議定、副総裁など新政府の要職を
歴任した。明治元年(1868)浦上信徒問題で列国公使と高輪で会談し、維新政府のキリシタン検挙と流配策を正当とする見解を主張した。のち右大臣、太政
大臣となり、岩倉具視らとともに新政府の中心的な役割を務めた。
ジェ
ロニモ・デ・ジェズス/Jeronimo de
Jesus
〜1601/近世初頭来日したフランシスコ会士。リスボン出身。スペインで修道誓願、司祭叙階。マニラを経て文禄3年(1594)平戸に渡来、京都、長崎
で布教。慶長2年(1597)日本26聖人の殉教事件後追放されマニラに帰る。翌年口之津に潜入。豊臣秀吉の死後、徳川家康に召し出され日比貿易の斡旋を
条件に布教を許され、慶長4年(1599)江戸に同会の聖堂を建て関東布教に着手。5年(1600)家康の特使としてマニラに赴き、翌年フィリピン総督の
親書を携え平戸に帰着したが病に倒れ京都の修道院で没。
シ
ドッチィ・G・B/Giovanni Batista
Sidotti
(1668-1714)イタリア、シチリア島バレルモ出身の在俗司祭。鎖国日本への宣教を志願し、1704年マニラに渡り日本語を学んだのち、宝永5年
(1707)和服帯刀の姿で大隅屋久島唐ノ浦に上陸するも、直ちに捕えられる。長崎奉行所に送られ取調べられた後、江戸に送られ、小石川切支丹屋敷に監禁
された。同所において新井白石の尋問を受け、『西洋紀聞』等白石の著書の材料を提供。その後切支丹屋敷の雑役長助・はる夫妻に洗礼を授けたことが発覚し、
地下牢に移され、半年後の正徳4年10月牢死した。
崇
伝(すうでん)(1569-1633)近世初頭の政僧。南
禅寺270世住持。字は以心。誼号は円照本光国師。醍醐3宝院、相国寺に学ぶ。慶長10年(1605)南禅寺住持を継ぎ、同13年(1608)徳川家康の
外交庶務を、17年以降は寺社関係も担当。異国渡海朱印状の発給やキリスト教禁令(伴天連追放文)、諸宗寺院法度などを起草した。方広寺鐘銘事件、紫衣事
件にも関与。幕府の枢機に参画し黒衣の宰相といわれる。著作には『本光国師日記』『本光国師法語』など。特に『異国日記』は幕府の外交政策、キリシタン政
策に関する史料として貴重。
末
次平蔵/すえつぐへいぞう/(〜-1630)近世初期の貿易商人。長崎代官。博多の豪商末次興善の次男。長崎開港後同町に移住し、乙名と
して町の支配に
あたり、朱印船貿易に参加、安南方面に船を遣わし、富を築いた。最初キリシタンであったが棄教した。元和2〜4年(1612〜18)頃長崎代官村山等安と
対決、失脚させ、代わって代官となると長崎奉行の下でキリシタンを迫害し、内外の宗門関係者から恐れられた。しかし力を入れていた台湾貿易で寛奉書や給旨
を下した。このため信長とはキリシタン問題で対立したが、秀吉との関係は良好。
大
田ジュリア/おおた/生没年不祥/近世初頭の韓国出身のキリシタン。おたあジュリアとも言われる。少女の時文禄・慶長の役で出兵した小西
行長に保護さ
れ、行長の妻の影響でキリシタンとなった。慶長5年(1600)の関ケ原戦以降は徳川家康の大奥に仕えたが、キリシタン禁制後も信仰を固持したため、17
年(1612)伊豆大島に流された。その後新島に送られ、そこから更に神津島に配流。その信仰の深さにより各修道会の宣教師の評価は高く、書簡や報告書に
も度々登場している。最期は不明であるが、神津島で没したとする説と、赦免され本土に戻ったとする説がある。
大
友宗麟/おおともそうりん/(1530-87)キリシタン
大名。本名義鎮(よししげ)。豊後ほか6か国の守護。ザビエルの豊後訪問を機にイエズス会士との親交が始まり、天正6年(董宍/イエズス会宣教師カブラル
より受洗。霊名フランシスコ。同年島津氏と日向耳川で戦い、大敗。豊後は崩壊の1途を辿るが、宗麟の信仰はかえって深まり、その保護により領内の信者は増
加し続けた.。有馬晴信、大村純忠等とともに天正遣欧使節を派遣したが、実際には殆ど関与していなかったらしい。晩年は津久見に隠棲し、ラグーナ神父に看
取られて病没した。
大
村純忠/おおむらすみただ/(1533-87)肥前西彼杵半島の領主。理専、丹後守。大村領内に良港を求めたポルトガル人たちの交渉に応
じるとともに、
キリスト教に好意を示し、永緑6年(1563)イエズス会士トルレス・Cから受洗。日本最初のキリシタン大名となる。霊名バルトロメウ。元亀元年
(1570)長崎を開港。領内の寺社を破壊し、領民をキリスト教に集団改宗させ、また長崎を教会領として寄進したこと等が、後の豊臣秀吉の伴天連追放令の
契機になったとされる。天正10年(1582)有馬晴信、大友宗麟(そうりん)とともに天正少年遣欧使節を派遣した。
岡
本大八/おかもとだいはち/(?ト1612)近世初頭のキ
リシタン武士。霊名パウロ。本多正純の与力となり、長崎に下向。慶長17年(1613)、黒船撃沈(ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号)事件の恩賞とし
て有馬晴信の旧領回復を幕府に斡旋すると言い、収賄を行っていたことが晴信の詮議により発覚、安倍川原で火刑に処せられる。大八は獄中より、晴信が長崎奉
行長谷川藤広謀殺を計画していたと訴え出て、晴信も死を命ぜられた。この事件で、大八・晴信が共にキリシタンだったことが注目を浴び、江戸幕府が禁教に乗
り出すきっかけとなった。
織
田信長/おだのぶなが/(1534-82)戦国大名。今川義元の西上を桶狭間に阻止して武名を上げ、徳川家康と協力しつつ「天下布武」へ
の道を歩む。永
禄11年足利義昭を奉じて入京するが、のち義昭を追い、室町幕府を倒す。延暦寺(えんりゃくくじ)焼討、長島一揆・石山合戦に見られる如く総じ
て仏教勢力に対し弾圧を加えたが、キリシタン宗門には、フロイス・Lに布教を許し、安土セミナリヨを聞かせたほか、天正9年(1581)には巡察師のヴァ
リニアーノを厚遇するなど好意を示した。但し関心はその教義ではなく、宣教師のもたらす西洋文化にあった。翌10年本能寺において明智光秀の叛逆に遭い自
刃。
オ
ルガンティノ・G (Organtino Gnechi
Soldi)/1533-1609/イエズス会司祭。イタリア、プレーシア出身。1556年イエズス会に入会川東洋布教を志し、67
年インドに向か
いゴアのサン・パウロ学院長を経て、元亀元年(1570)来日。京畿布教を担当。都地区の修院長として日本文化習俗への適応策を進める一方、京都南蛮寺の
建立や安土セミナリヨの開設等、西洋学芸の導入を推進した。「宇留岸伴天連」(うるがんばんてれん)として信長の厚意を得、十数回にわたり会談している天
正15年(1587)秀吉の追放令により小豆島に潜伏しながら畿内との間を往復。同18年(1590)には再び都地区の上長を務める。慶長9年
(1604)より長崎に隠退。同地で死去。
カ
ブラル・F/1533-1609/イエズス会日本布教長。ポルトガルに生まれ、コインブラ大学に学ぶ。1550年インドに渡航。56年ゴ
アでイエズス会
に入会し、58年司祭に叙階。若くして修練長や院長職を歴任。元亀元年(1570)志岐に来着、日本布教長に就任。大村、島原での集団改宗、有馬義直・大
友宗麟への授洗等、教勢を急速に発展させた。日本習俗への適応策には批判的で、ヨーロッパ人主導の宣教体制を維持しようとしたことでヴァリニアーノと対
立。天正8年(1580)布教長を辞任。同11年マカオに移り、同14年(1586)よりコーチシナ(ベトナム南部)、ゴアで役職に就き、文禄元年
(1592)インド管区長を務める。ゴアで死去。
亀
井茲監/かめいこれみ/(1825-85/幕末〜維新期の石見国津和野藩主。天保10年(1839)襲封。藩政には海防のほか、教育にも
力を注ぎ、漢学
と洋学に深い理解を示す。明治元年(1868)参与、神祇事務局判事となり、ついで議定、(ぎじょう)神祇事務局輔、神祇官副知事と昇進。維新政府では藩
士福羽美静(ふくばびせい)らを部下とし神祇行政にあたる。一藩内においては神仏の浪清を禁止するなど社寺制度の改正を実施したが、それらは明治政府の神
祇行政の雛形ともなった。浦上四番崩れでは、神祇官の首脳としてキリシタンを教諭した。津和野藩に浦上キリシタンの中心人物が流されてきた時、「キリシタ
ンは説諭して改宗させるべきである」と主張し、思想には思想で、という態度を示した。
日
比屋モニカ/ひびや/1549-77)戦国末・安土時代の
女性キリシタン。堺の豪商日比屋了珪/ディオゴ/の娘。叔父である日比屋宗札(茶人)との結婚を迫られていた永禄7年12月(1565年1月)、日比屋家
で病気療養中の修道士アルメイダに対し、生涯貞潔に過ごすと決意を告白。フロイス・Lによるとモニカは信仰心に厚く(聖女のような人柄であったという。し
かし宗札がキリシタンになると約束したため同人と結婚、1男2女をもうけた。また、キリシタンになろうとしなかった母に対し、臨終を間近にして絶食し改宗
させている。
平
山常陳/ひらやまじょうちん/(〜-1622)堺出身の貿易家。殉教者。京都でイエズス会士から受洗。洗礼名ジョアチン・ディアス。ルソ
ン貿易に従事
し、ドミニコ会士と交流。元和6年(1620)アウグステイノ会士スニガとドミニコ会士フローレスらを乗せて日本に向ったが、台湾近海で英蘭連合艦隊に舎
捕され平戸に入港。英蘭両商館は常陳の船の積荷を没収し、分配することを主張。常陳はこれを不当であるとして対立。結局スニガらが宣教師であることが発覚
し、常陳は火刑に処せられた。キリシタン迫害の激化、スペインとの断交に向かわせた事件となった。
フ
エレイラ・C (Cristobal
Ferreira)(1580頃-1650)イエズス会司祭、転び伴天連。日本名沢野忠庵。ポルトガル出身。慶長14年(1609)長崎に渡
来。同19年の大
追放以降も京都に潜伏し、都地方区の上長を経て管区長秘書や管区会計の仕事に携わり、迫害下の長崎や大坂で布教に奔走した。寛永10年(1633)長崎で
捕縛され、数時間の穴吊し刑の後棄教。日本名、妻、30人扶持を下され、禅宗皓台寺(こうたいじ)檀家となり、長崎本五島町に居住。宗門目明しとして、キ
リシタン詮議に協力した。棄教した時は実質準管区長であり、イエズス会をはじめ教会関係者に与えた衝撃は大きく、海外にも大きな反響を与えた。寛永13年
(1636)以降排耶書『顔偽録』その他の書物を著した。
フォ
ルカードT・A
(Fourcade)(1816-85)パリー外国宣教会司
祭。ヴェルサイユ生まれ。1843年マカオに赴任。翌年中国人神学生とともに那覇に入港。その後2年間琉球天久(あめく)泊で監視下におかれる。当時の琉
球は薩摩藩の付属国であり、幕末日本の1地域に再布教を目指して来日した最初の宣教師となった。弘化3年(1846)日本代牧に任命され、長崎に来航した
が、上陸は許されず香港に帰る。1847年、日本布教の応援を仰ぐため帰国。ついでローマに行き教皇を訪ねる。そこで香港教区長に任命される。1851年
病気のため宣教会を退会し帰国。回復後1873年にエクス大司教になる。
プ
チィジャン/Petitjean
1829-84/復活教会の指導者。フランスの出身。1854年司祭叙階。59年バリー外国宣教会に入会。万延元年那覇に上
陸。横浜を経て
文久3年長崎に移る。慶応元年大浦天主堂で、奇跡的なキリシタンの復活(浦上信徒の信仰表明/を体験。彼らへの教理指導に没頭した。3年浦上4番崩れが起
こると、信徒救済のため奔走し、ローマにも赴いて教皇に訴願した。帰日後も信徒救出に尽力したほか、提倶を受けていた教書類を再編し、『聖教初学要理』
『聖教日課』など「プティジャン版」を多数刊行した。
フ
ロイス・ルイス/1532-97/イエズス会司祭。ポルトガルのリスボン生まれ。1548年イエズス会入会、インドへ向かう。61年ゴア
で司祭叙階。学
院長や管区長の秘書として文才を評価される。報告書の取り扱い係として日本事情にも精通。永禄6年(1563)横瀬浦に上陸。翌年入京。織田信長に好適さ
れ十数度会談する。天正4年豊後に赴任、大友宗麟父子と親交を持つ。同11年より晩年まで総長の命により編述した『日本史』は、『日欧文化比較』と並んで
戦国末期から安土桃山時代の社会・文化・地方史研究において高く評価されている。長崎の修道院で死去。
北
条氏長/ほうじょううじなが/(1609-70)江戸時代
初期の旗本。軍学者。氏康の曾孫として江戸に生まれる。のち正房。徳川家康・秀忠に御目見し小姓組に列す。承応2年(1653)従5位下・安房守に叙任。
明暦元年(1655)大目付。甲州流軍学の祖小幡景憲(おばたかげのり)につき、その継承者となるが、兵法の合理化を進めて普遍的な経世の法へ拡げること
を意図し北条流の祖とされる。慶安の軍役令を起草。万治元年(1658)井上政重の跡を継ぎ宗門改役を兼ね、尾濃崩れをはじめ寛文年間(1660)年代の
各地におけるキリシタン禁制を指導した。主著に『士鑑用法』等がある。
細
川ガラシャ/ほそかわ/1563-1600)安土桃山時代の女性キリシタン。明智光秀の娘、細川忠興の妻。名は玉子。ガラシャは霊名。
15歳で忠興と結
婚、丹後宮津城に居たが、天正10年(1582)本能寺の変後は、反逆者の娘という立場から丹後の味土野(みーとの)に2年間幽閉され、その後大坂の夫の
下に戻ることを許された。天正15年(1587)大坂の教会で教理を学び、密かに清原マリヤ(小侍従/から受洗したが、夫と親交のあったキリシタン大名高
山右近の影響があったらしい。慶長5年(1600)関ケ原戦で西軍の人質となることを拒否し、自害せず、家老の小笠原少斎に自身を討たせ没した。
松
倉勝家/まつくらかついえ/(1597-1大38)江戸時
代前期の大名。従5位下、長門守。寛永8年(1631)父重政の遺領を継ぎ、肥前島原藩主。同14年、江戸在府中に島原の乱が勃発、急遽帰国し、原城攻撃
に当たった。一揆の理由として、重政・勝家2代にわたる松倉氏の苛政とキリシタン弾圧が挙げられ、これに前領主有馬氏の遺臣が中心となりキリシタン思想の
もとに領民が結集したという。乱鎮圧後、所領没収の上、森長継に預けられ、一揆を蜂起せしめた等の罪状により処刑、同家は断絶。
松
平信綱/まつだいらのぶつな/(1596-1662)江戸
時代前期の老中。武蔵川越藩主。伊豆守。3代将軍徳川家光に近侍し、寛永10年(1633)老中となる。同14年島原の乱が勃発すると、幕府は板倉重昌に
討伐を命じ、ついで信綱にも一揆鎮圧を命じた。信綱は戸田氏鏡(うじかね)とともに島原に下向したが、信綱の島原着陣4日前に重昌が一揆勢のこもる原城を
攻撃し戦死したため、代わって信綱が総指揮をとる。九州の諸大名を動員し、兵糧攻めのほかオランダ船の砲撃などにより、翌年原城を落し、一揆勢を繊滅。乱
後の処理に当たった。家光の死後は幼将軍家綱を補佐、慶安事件に対処するなど、幕閣中の重鎮として幕政を主導した。
松
浦隆信/まつらたかのぶ/(1)(1529-
99)戦国末
期の武将。平戸領主。道可。天文19年(1550)ポルトガル船が平戸に入港したことにより、一時期宣教師に厚意を示し生月(いきつき)や度島(たくし
ま)がキリシタンの島となった。のち反キリシタン策に転じたため、永禄4年(1561)宮の前事件を機として、ポルトガル船は横瀬浦に入港した。
松
浦隆信/まつらたかのぶ/(2)(1591-1637)キリシタン大名。平戸藩主。生母メンシア(大村純忠娘)の感化で受
洗、のち棄教。慶長14年
(1609)以降オランダ・イギリスの商館を平戸に誘致した。19年幕命で長崎の教会堂を破壊。[参考・松浦氏略系譜‥隆信→鎮信→久信→隆信→鎮信]
曲
直瀬道三/まなせどうさん/(1507-94)戦国・安土桃山時代の医師。名は正盛、正慶。字は一渓。号は雖知苦斎(すいちくさい)。京
都柳原出身。永
正13年(1516)近江天光寺ついで相国寺に入り、その後足利学校で学ぶ。さらに田代三善に師事し、李朱医学を修める。天文14年(1545)帰京し、
還俗して医療に専心。将軍足利義輝・細川勝元・毛利元就などに重んぜられ、正親町天皇より翠竹院の号を賜る。医学校啓辿院(けいてきいん)を建て、近世医
学の祖と称される。主著『啓辿集』他著書多数。フロイス『日本史』に、オルガンティノから受洗し多くの人々に影響を与えたとの記述がある。
三
木パウロ/みき/1563-97/日本26聖人の1人。イエズス会のイルマン。キリシタン武将三木判大夫の息子。天正8年(1580)に
建てられた安土
セミナリヨの第1期生で本能寺の変後は高槻・大坂に移り、天正14年(1586)には豊後臼杵の修練院に入る。秀吉が禁教令を布告した時には有家(あり
え)、生月(いきつき)へ行き、同地で修練期を終えた。ついで天草のコレジヨで学び、文禄元年(1592)長崎へ移る。その後大坂で布教活動を続け、慶長
元年/芸崇)、捕えられ京都市中引回しの後、長崎西坂で殉教する。布教熱心で十字架の上からも説教し続けた。遺骨は、日本26聖人記念館に納められてい
る。
村
山等安/むらやまとうあん/(1562-1619)近世初頭の長崎代官。生国は諸説あり、前半生については不詳。イエズス会士により受
洗、霊名アントニ
オ。文禄元年(1592)豊臣秀吉に謁し、代官職を得たと言われる。朱印船貿易に参加して巨富を築き、教会の保護に努めたが、イエズス会と対立してスペイ
ン系教団に接近したご元和2年(1616)台湾出兵を挙行するが失敗。また幕府の禁教政策の強化によって彼の立場は次第に困難となり、同4年長崎の有力者
末次平蔵に訴えられ、大坂の陣(1615)における次男の村山フランシスコの大坂方加担が暴露されるに及び、一族もろとも処刑された。
モ
ラレス・F/Francisco Morales
1567-1622/スペイン人ドミニコ会司祭。殉教者。マドリッド出身。1598年マニラに渡り、1601年同地の聖ドミニコ会修道院長となる。翌慶長
7年(1603)日本管区長代理として薩摩の厳島に渡来。同13年(1608)徳川家康・秀忠を訪問。長崎に教会建設の許可を得、サント・ドミンゴ教会を
建てた。19年(1614)マニラに追放されるが、沖合から小舟で長崎に戻り、長崎代官村山等安の長男徳安にかくまわれる。同年捕えられ、大村の牢に入
獄。元和8年(1622)長崎で緩慢なとろ火による火刑に処された。
守
山甚三郎/もりやまじんざぶろう/(1846-1932)
浦上キリシタン中心人物の1人。浦上四番崩れにより慶応4年(1868)津和野藩(島根県)に送られる。牢内では冬でも単物1枚で、夜は凍りつくような板
の間にむしろをかぶり寝るというような生活を強いられた。明治2年(1869)冬高木仙右衛門とともに水責めに処されたが屈しなかった。その後、父と弟の
殉教に立ち会う。明治6年に保釈の形で姉マツとともに帰村。その後は農業に従事しながら、教会の教え方として活躍する。
ヤ
ジロウ(アンジロウPaulo de Santa Fe)/〜
-1551頃/日本人最初のキリシタン。当時の史料にはヤジロウ又はアンジロウとあり、定かではない川鹿児島生れ。天文15年(1546)マラッカに渡
り、ザビエルに導かれて、ゴアで教理を学び受洗した。霊名パウロ。同18年(1549)日本開教を決意したザビエル一行を案内して鹿児島に帰り、キリシタ
ン宗門日本伝道の手引者となる。ザビエル上洛後、鹿児島に残り伝道したが、迫害に堪えられず出奔し、寧波に渡り同地で殺されたという。
山
田右衛門作/やまだうえもんさく/(生没年不詳)江戸時代初期の南蛮絵師P肥前島原の領主である有馬氏の臣で、棄教した有馬直純が日向に
転封された後、
新領主となった松倉氏に絵師として仕えたらしい。寛永14年(1637)に起こつた島原の乱では1揆軍に加わり原城に籠ったが、有馬との内通が露顕し幽閉
された。そのため落城時に助命され、以後江戸で余生を送った。明暦元年(1655)没説がある定かでない。「聖体讃仰天使図旗」(せいたいきんこうてんし
ずき)「達磨図」(だるまず)が等が右衛門作または同門下の作品として知られる。
ラ
モン・P/Pedro Ramon,sj
1549-1611/イエズス会司祭。スペイン、アラゴン地方の出身。アルカラ大学に学び、1570年イエズス会入会。73年コインブラで司祭叙階バ翌年
ヴァリニアーノ・Aの宣教団の1員としてリスボン出航。同年9月ゴアに到着、同地の修練院長となる。天正5年(1577)来日、府内コレジヨで教え、同9
年臼杵の修練院長。『ぎやどペかどる』ほか多くの信心書の翻訳事業を指導し、キリシタン文学研究に貢献した。豊臣秀吉の追放令により肥前各地を転々とし、
19年(1591)雲仙のセミナリヨの院長となる。文禄4年留学生を伴ってマカオへ渡り、慶長4年(1599)日本に戻る。その後8代、博多のレジデンシ
アで働く。同15年療養のため長崎に戻り、同地で死去。
ル
ビノ・A/Antonio Rubino,sj 1578
-1643/江戸初期のイエズス会司祭、殉教者。イタリア人。1603年ゴアに渡り、インド各地で布教。1639年に日本と中国の巡察師となる。鎖国体制
下の日本に宣教師を送り込む計画をたて、自らその実行者となり、同志十名を2手に分け、寛永19年(1642)第1隊を率いてマニラ経由で薩摩国下甑島に
上陸した。が直ちに捕えられ、長崎で奉行の詮議と水責めなどの拷問を受け、翌年全員が穴吊しの刑で死んだ。この時1人の従者は棄教し、間もなく死んだとも
言われる。次のキアラ・Gを含む第2隊が、イエズス会士による日本潜入の最後となった。
ロ
ドリーゲス・ツズ/Joan Rodriguez(Tzuzu),sj
1561頃-1633/ポルトガル出身のイエズス会司祭。本名ジョアン・ロドリーゲス。ツズは通事(つうず/(通訳)の意。天正5年
(1577)に来日
し、同8年イエズス会に入会した。臼杵の修練院、府内のコレジヨを経て八良尾(はちらお)セミナリヨのラテン語教師となった。説教できるほど日本語に熟達
したため豊臣秀吉、徳川家康の知遇を得て多くの外交折衝妃当ったほか、イエズス会では財務関係を担当。慶長15年(1610)外交・貿易問題からマカオに
追放され、同地で没した。『日本大文典』『日本教会史』の編著を残した。
ロ
レンソ了斎/1526-92/イエズス会日本人イルマン。
肥前出身。目が不自由な琵琶法師であったが、天文20年(1551)ザビエルに出会い受洗。永禄2年(1556)京都布教のためヴィレラ・Gと入京。幕府
より布教許可を得、多くの人々に教えを説き、後のキリシタン文学者養方軒パウロや高山右近父子等を改宗させた。8年(1565)豊後に下り、大村・五島な
どで布教。12年(1569)再び京都に戻り、織田信長と接触。日乗と宗論。天正15年(1587)伴天連追放令により平戸に赴く。初期教会で重要な役割
を果し、文禄元年(1592)長崎で死去。