「雪のサンタマリア」に関する史料と説明 写真 精密写真

15 雪のサン夕・マリア
「外海町は長崎県の彼杵半島にある。昔の宣教師はこの地方をホカメと呼んでいた。山すそは海まで入り込んでいるので、景色には力と厳しきが溢れる。農地は 大 抵うすい土の段々畑で、農家は畑の縁に海岸から山の上までまばらに散らばっている。至るところ海の存在が感じられる。広い海、荒々しい海、透き通った空の 光を写す美しい海である。
ここで春の隠やかなある日、高い椿の木の影にある農家で私は聖母マリアの御絵があらわれるのを見た。この出現には天使がいなかったし、別世界からの声は聞 こえなかった。全て当然のことであったが、それには奇蹟のような力が感じられた。かくれキリシタンの家で、主人は出稼ぎに行つており、丁度奥さんが畑から 帰って来た。畑の土を手から拭いながら薄暗い家の中へ入った。それから部屋の奥の納戸から小きな絵巻物を出して私たちに渡した。「雪の聖母はこれです」と 少し震えるかすれた声で言った。
喜びと好奇心を抑えながら私は家の外に出て古い紐を解き、ゆっくりと掛軸を開いた。目の前に現われたのは、紙の上に日本の絵の具で描かれた無原罪の聖母の 絵であった。大変傷んでいたが、幸いにも顔と手はまだ完全に残つていた。非常に上品な優しい姿である。モデルになったのはイタリアかスペインのものであっ たが、私の手にあるものには日本の筆の跡が見られる。ロザリオの十五玄義の絵の縁に描かれている被昇天の聖母に似ている。キリシタン時代からこの家族に よって保存されていたもので、おそらくイルマン・ニコラオの指導の下に長崎で描かれたものであろうと忠う。誰がこの美しい絵を描いたのぞあろうか。技術的 に見ると素人ではなかった。ニコラオ自身でないとすると、彼の最も優れた弟子マンシオ、夕デオ、ヤコべのうちの一人であったかも知れない。雪のサン夕・マ リアという名前は、のちに潜伏キリシタンによつてつけられたものである。雪のサン夕マリアの祝日は、ローマの教会の暦にも外海のバスチャンスの暦にも八月 五 日とある。伝説によるとリべリオ教皇の時代に(四世紀下句)ローマで夏の一番暑い時、イエススの御母に捧げられる教会の場所を示すために雪が積もった。こ の話は「天地はじまり」に加えられたが、その本では聖母マリアが行なった奇蹟のように述べられている。
「丸やきいてかしこまり、又々天にむかつて祈誓をかけ、頃は六月暑中なる に、ふしぎやにわかに空かきくもり、雪ちらちらとふり出、まもなく数尺つもりけ る。奇蹟を行なったのちマリアは天に昇り、そこで、「天帝大きに悦びたまひて、『さてさてよくもきたりいで位を得きせん』と雪のきんた・丸やと名づけたま い。」
あの春の穏やかな日の光に包まれて、この御絵は思わずして咲いた美しい花のようであった。信仰、美術、伝説と歴史はその破れた掛軸に見事に一致している。 そしてこの全てのことの上に雪のサン夕・マリアの話は愛と祈りの証しである。
迫害の三百五十年間、命をかけてこの御絵を守つて来た信者の愛、また、その長い間、この絵の前にその信者が扶けと慰めを求めて捧げた祈り。」

結城了悟、『キリシタンのサンタマリア』 、日本二十六聖人記念館、1979年、14〜15頁
『宗 門糺明の栞』4章、七『宗門大要』(北条安房の守宗門改記録下巻、1658年)
十九、雪のサンタマリアと申す事
雪のサンタマリアと申す事は、ロウマにてある侍子を持ち申さず候〔に〕 付て、金銀とらせ申すべきものも之なき〔に〕付て、サンタマリアの寺を建て申すべき由、女房と相談申し候處に、其夜の夢にロウマの外に雪降りたるところ之 めるべく候の間、其處に寺を建て候へと、夫婦にサンタマリア夢にまみえ給いて仰せられ候〔に〕付て、夫婦ながら右の所へ参り見候へば、六月土用の中にて御 座候へども、雪降り候て御座候。其處に則ち寺を建て申候。夫に就き雲のサンタマリアと申し候。

姉崎正治、『切支丹宗門の迫害と潜伏』、同文官、(1925年4月、 129頁)より