日本二十六聖人記念碑
この《西坂の丘》は、16世紀から貿易で栄えた《長崎》の町の入口に面しています。時津街道の起点・終点です。港のそばの、たくさんのキリスト教徒が住む《長崎》の町が、この丘から見えます。ここでは、16世紀~17世紀、日本人だけでなく、各国のキリスト教徒が処刑されました。
時を経て、この世界的な史跡を継承するために、1962年、この地での最初の殉教者のレリーフを刻んだ記念碑と歴史の資料を展示する記念館と教会堂が建設されました。
記念碑は、舟越保武氏が制作した二十六聖人のブロンズ像が花崗岩の台座に設置され、ブロンズの十字架の縦木の部分に、詩編117とマルコ福音書8章34節が添えられています
。
この地の整備に関わってきた、当時のイエズス会管区長ペトロ・アルぺ神父は、「この殉教記念碑は石とブロンズでつくられているとは言え、これからほとばしり出るものは、生き生きとした暖かい愛の精神であります。この碑は、愛の証を教えるドキュメントであり、愛によって、力強く世界恒久平和を訴えるものであります。今日、世界のどこかで憎しみの戦い、冷たい戦争が続けられていますが、愛のシンボルの周りにお集まりくださった皆様の熱誠は、日本と世界の人々をして、互いに手を取り合わせ、人類に二度と悲劇を繰り返させないでしょう。」という言葉を、1962年6月10日の二十六聖人列聖百年祭における除幕式において述べておられました。
ここで語られた《愛》は、ラテン語で《caritas》、英語で《charity》、16世紀~17世紀の日本のキリスト教徒が《ご大切》と訳した言葉、すべての人の救いを願う《人類愛》です。そして、ペトロ・アルぺ神父の言葉は、今まさに、日本に、世界に、呼びかけられているメッセージです。
●殉教者の名簿
殉教者の順序は当時(1597年)のルイス・フロイス の記録による。日本語訳は、フ ロイス, ルイス『日本二十六聖人殉教記』1597 『聖ペトロ・バプチスタの書簡』、1596ー1597、結城了悟
訳・解説 純心女子短期大学・長崎地方文化史研究所 第十輯1994、1995年2月)。
レリーフも、この順序に従い、殉教者は、右から左へ並ぶ。
01/聖フランシスコ
02/聖コスメ竹屋
03/聖ペトロ助四郎
04/聖ミカエル小崎
05/聖ディエゴ喜斉
06/聖パウロ三木
07/聖パウロ茨木
08/聖ヨハネ五島
09/聖ルドビコ茨木
10/聖アントニオ
11/聖ペトロ・バプチスタ(スペイン)
12/聖マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン)
13/聖フィリッポ・デ・ヘスス(メキシコ)
14/聖ゴンザロ・ガルシア(インド)
15/聖フランシスコ・ブランコ(スペイン)
16/聖フランシスコ・デ・サン・ミゲル(スペイ ン)
17/聖マチアス
18/聖レオン烏丸
19/聖ボナベントウラ
20/聖トマス小崎
21/聖ヨアキム榊原
22/聖フランシスコ医師
23/聖トマス談義者
24/聖ヨハネ絹屋
25/聖ガブリエル
26/聖パウロ鈴木
●聖パウロ三木の最後のメッセージ( I wish not revenge and forgive)
日本二十六聖人記念碑の向かって右から6番目、両手を広げて眼前の人に語りかけている人が、聖パウロ三木です。
彼は、1597年2月5日に殉教した26聖人の一人でイエズス会の日本人修道士で、十字架上からメッセージを残しました。「…キリシタンの教えが、敵及び自分に害を加えた人々を赦すように教えている故、私は国王(秀吉)とこの私の死刑に拘わったすべての人々を赦す。王に対して、憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」
彼は、すべての人の救いを願って、自分の命を差し出しました。彼らが自分たちの過ちに気づくことを願って…。キリストと同じ33歳でした。
●彫刻家・舟越保武氏(1912ー2002)
1912年、岩手県に生まれる。父親は熱心なカトリック信者だった。高校時代に彫刻家を志し、1939年東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。
1950年にカトリックの洗礼を受けた後は、キリスト教やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。1967年からは、東京藝術大学や多摩美術大学などで教授を務める。日本二十六聖人殉教の記念碑が高村光太郎賞を受賞したほか、受賞歴多数。島原の乱に着想を得た「原の城」はローマ教皇に寄贈され、教皇からローマ教皇庁大聖グレゴリオ騎士団勲章を授与された。
2002年、日本二十六聖人が殉教した2月5日に89歳で死去。